成分表70
いい景色
上田信治
「里」2012年10月号より改稿転載
一人で焼き肉を食べることと、一人でよい景色を見ることは、やはり似ていると思った。
冬はスキー場になるその高原は、それ以外の季節、リフトだけ営業して人を山頂まで乗せていく。自分はこれまで自然とか景色などに感受性が低かった気がするのだが、最近は景色がよいと普通に気持ちがよいので、夕方、終了間際のリフトに乗ってみた。
山頂は、誰もいなくて、とてもよい景色だった。
翌日、帰るまで時間があったので、午前中にもう一度同じリフトに乗ってみた。前日と違い、山頂は人が多かった。家族連れや、男女二人で来ている人、犬を連れて来ている人もいるし、バイク乗りらしい男性が二人で来ていたりする。つまり、誰かといっしょに来ている人が多い。そういえば、女性の二人旅が流行した時代もあったし、行楽地で大きな人形を連れた老人を見かけたこともあった。
きっと人にとって、歓びを分かち合うということには、深い意味があるのだろう。
自分も、自分を歓ばせることをして、誰にも「いい景色だね」「美味しいね」と言わずに帰ると、心にすこし澱のようなものが残る。誰かとそれを共有すれば、そういうことはないので、だとすれば、人は、澱を濾過するものとして他の誰かを必要とするのだろうか。
あ、それが「淋しい」ということか。なんという、当たり前の結論。小学六年生のころ、日曜の朝、ああこれがお腹が空くということか、と知ったときのことを思い出した。
人は、人々の一部として生きるものだから、淋しさは、充分にそうでないことの罰かと思ったり、しかし、人には自分の心しか持ちものがないということも本当なので、むしろその澱のほうに何かがあるのではないか、と思ったりもする。
生きている誰かではないものを相手にする時間は、心を言葉少なに空洞に近いものにする(とすると、映画やテレビは誰かの一種だ)。そこに澱が生まれるなら、その屈託は、自分が蟹なら蟹ミソのような、いわば肝心の部分なのではないか。
人のよろこびに必要量のようなものがあるとして、自分で自分を歓ばせるだけでは一人の必要量に足らないので、誰かのよろこびを自分に「足す」。そういうことが、人間にはできるのかもしれない。ほら、独身の人が、急にできた甥や姪の可愛さにはまったりするじゃないですか。
自分もこうして、ひとりで景色を見て生まれた屈託などのことを、誰かに言いたいと思ったのです。
一にぎりは胡麻がとれそうなうちの胡麻の花かな 荻原井泉水
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