成分表69
食パン
上田信治
「里」2012年11月号より改稿転載
最近、朝食に、パスコの「超熟」という食パンを食べ続けている。
いまは外国から有名なパン屋が入って来るし、近所にも次々と若い職人が店を開いて、それぞれ大変美味しい。しかし、美味しいパンも続けて食べると飽きるというか当初の感動が減ずるので、これまではパン屋からパン屋へと目先を変え続けていたのだけれど、そういうことはもうやめよう、もうずっとこれ(「超熟」)でいいんじゃないか、という気になったのだ。「超熟」は製法や原料に特徴があり、ヒット商品らしく、実際美味しい。とりあえず数ヶ月食べて飽きていない。ひょっとしたら、飽きるほどには美味しくない、というようなこともあるのかもしれない。
自分は読むものには飽きが来にくいほうなのだけれど、数年前に完結しこの何年か飽きずに再読していたある少女漫画が、はたと面白くなくなっていた。それまで二十回以上読み返してカンペキと思われていた作品が、このあいだ読み返してみたら、何だか底が割れたような気がしてしまったのだ。それは、たぶん自分という読み手の側に起こった変化だ。では何が変わったのかというと、これがよく分からない。
美味しさや面白さに飽きてしまうのは、はじめ「ふつう」のものとの違いを価値と感じ、やがてその驚きに慣れてしまうということだ、と、まずは言える。「スーパードライ」というビールは、始めおどろくほど美味しく感じられたが、しばらくして、それはビールらしくない酎ハイのような味が面白かったからだ、ということが分かってしまった。
意識されたことは、飽きのプロセスにさらされる。
その漫画については、どこが面白くなくなったのかを考えないことにした。意識されてしまった何かかより、かつて感じていた面白さのほうが、きっと、そのものの本質に近い。
大げさな言い方になるけれど、自分は差とか違いではない美味しさというものにあって欲しくて、同じパンを食べ続けている。パンはもともとそれ自体美味しいものだから、それでいいという割り切りもあっていい。
差とか違いではない面白さというものはあるか。
ものに慣れやすい自分が差とか違いを「経由」することを求めているだけで、面白いものもまた、もともとそれ自体面白いのだということはないか。
正午の海と本の厚さのパン明るし 阿部完市
追記:「超熟」は、その後、あまり美味しくなくなってしまった。自分のせいかパンのせいかは分からないけれど。
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