〔その後のハイクふぃくしょん〕
黒湯
中嶋憲武
朝、目が覚めた時、部屋の奥まで明るかったので、やっちゃった、不覚、と思って時計を見たら、まだ早い時刻だったので、もうちょっと寝ようと思ったその時、そうだ、今日は日曜だったんだと気がつき、更なる喜び。わたしの回りに薔薇の花が咲き、安心して寝よう、深く眠ってしまおうと決めた。
久し振りにおもては晴れているのだろうか。猫のミネコは部屋へ入って来なかった。中庭に面した日の射し込む廊下のマットの上で、眠りこけているのかもしれない。
春陰という言葉があるように、ここ数日、どんより暗く、曇ったり降ったりの天気だったが、今朝はからりと晴れているので、目が覚めた時、思いのほかの明るさに、はっとしたのかもしれない。
とにかく寝よう。極楽極楽、甘露甘露。帰命頂礼。
つぎに目が覚めたのは、軽く十時を回った頃だった。どうも胸の辺りが重いと思ったら、ミネコが澄ました顔で乗っている。部屋へ入って来て、わたしの胸の上でお休みになったようだ。ミネコちゃん、おはようと言うと、掠れた声で小さく、ニャ、と返事をして、わたしの胸を前足で揉み始めた。爪が伸びているのか、少し痛い。切ってあげなきゃ。二、三回背中を撫でてやると、気分が変わったのか、わたしからぱっと離れてしまった。
階下の居間から、母とお姉ちゃんが陽気に話している声が聞こえる。朝食の仕度をしているのだろう。お味噌汁のいい香りがしてきた。今朝は大根だな。
お姉ちゃんは社会に出てから、この春で三年目だ。小さな商事会社の総務部に勤めている。学生時代はバンド活動に熱心だったが、社会に出ると、ぱったりと辞めてしまった。わたしにはその辺の心境が分からない。実力の差というものを思い知ったか、もともとそれほど好きでもなかったのか。そこは聞いてはいけないような領域の気がして、ずっと聞かずにいる。
起きて居間へ行くと、お姉ちゃんが食卓に箸を並べているところだった。母は、わたしに、「これ、お父さんに上げて来て」と、ごはんを高く盛った仏飯器を差し出した。父は去年の夏、胃癌で亡くなった。父が亡くなって、一週間位は、道を歩くにしてもふわふわと雲の上でも歩いてるみたいに、自分が頼りなくて、掴みどころのない日常の中にいた。それは母もお姉ちゃんも、きっとそうだったろう。
悲しみは後からやって来る。午後のプールの帰り道、不意に涙がぽろぽろ出て、油蝉のジリジリ鳴く、灼けたアスファルトに、自分の影がくっきりと動いて、それだけが別の意志を持って動いているように見えたのを、不思議に思っていた。
父にごはんを供え、手を合わせて目をつむっている間、そんな事をふと思い出した。
居間へ戻ると、母とお姉ちゃんが待っていた。五穀米と大根のお味噌汁、焼きたらこ、梅干、納豆、海苔、お漬け物。窓から差す午前の日に、白い湯気が立ち昇って、豪華だ。なんと言うか、この一瞬が豪華。この一瞬に立ち会えた事が豪華。豪華さなんて、ひととき感じるものでいい。
「ミネちゃんは、かんなの部屋?」お姉ちゃんは納豆をぐるぐる掻き回しながら言った。
「ううん、出て行ったけど」
「どうしてミネコは、かんなにべったりなんだろ。かれん、なんかミネコの悪口でも言ってるの?」母は梅干をごはんに載せながら言った。
「言ってないよ。意外と猫は悪口分かるからね。気をつけてる」納豆をさっきよりも加速させてぐるぐる。
「どうしてわたしにべったりなのか、分かんない。匂いかな。それとも前世が猫だったとか」
「かんなには、ミネコのご飯、買えないのにね。わが家の人間関係の優先順位は、理解してないのかな」
「そこが犬と違うところね」母が決めつける。
稼ぐ優先順位だったら、薬剤師のパートをしている母が一位だろう。その次がお姉ちゃん、三番目がたまにアルバイトするわたしという事になるのだけど、どういう訳か、わたしはミネコに大事にされている。
午後は本を少し読んで、少し寝た。朝は晴れていたのに、曇っている。わたしの回りに薔薇の花が萎み始め、憂鬱よ、こんにちは。
庭のコブシが見事に咲いて、その白い花を見つめているうちに、小学生の頃、お姉ちゃんとよくやった「タイトルアクション」という遊びを思い出した。「タイトール、アクションッ」と唐突に叫んで始めるのが、この遊びのしきたりだった。
わたしとお姉ちゃんは、学校の図書室でよく本を借りていて、「アッシャー家の崩壊」とか「モルグ街の殺人」とか借りて来ては、タイトルを身体の動きでパフォーマンスしてみた。例えば「アッシャー家の崩壊」だったら、「アッシャーッ」と奇声を挙げてジャンプする。この時の空中での姿勢も工夫が必要で、ランニングのポーズだったり、大の字のポーズだったりと、いろいろやってみた。次に「けの」で、右手を挙げて、左手は丸めて腰に当てる。「ほう」で両手をまっすぐ頭上に挙げて、そのまま上体を横に倒す。「かい」で、くるりと一回転して前に戻って来たところで、両手を斜め下に広げて、決めのポーズ。つまり言葉と動作は、何の関係もなく、その時のひらめきに頼って、面白いと思える動作をして、タイトルとの乖離を楽しんだ。
お姉ちゃんの「モルグ街の殺人」は、とてもシンプルだ。「モルグ」で、頭を両手で抱え、膝を折って中腰になる。「がいの」で両手を斜め下に開き、てのひらをこちらに向け、両足を肩幅に開いて立つ。「さつ」で開いていた両手両足をクロスさせる。「じん」で再び、両手両足を開く。わたしはそのシンプルさが、とても壷に嵌まってしまい、お腹を抱えて笑い転げたものだ。
母の、あらあ、困っちゃったわあ、という声で目が覚めた。仏間でまた眠ってしまったのだ。時計を見ると四時に近い。読みかけの本を開いてみて、また閉じる。のそのそと起きて母に聞いてみると、給湯器の故障で、お風呂のお湯が温かくならないのだと言う。
「あなた達、今日はお風呂屋さんに行ってくれない?」母にそう言われて、わたしとお姉ちゃんは、近所の天馬湯へ行く事にした。
何年ぶりだろう。小学生の頃、友達数人とよく行った。みんなでワイワイとお風呂へ入るのが、特別なイベントであったなあ。わたし達が、とんま湯と呼んでいた天馬湯は、外観は普通の銭湯だけど天然温泉で、一階は温泉、二階は休憩場で舞台もある。最近は落語家を呼んだりもしているらしい。
この温泉には、黒湯という通称の濃い茶褐色の熱いお風呂があって、わたしとお姉ちゃんはモカ風呂と言っていた。そのお風呂の色を見ると、なんだか懐かしく、お姉ちゃんとそろそろとつま先を入れてみた。子供の頃は、二分と入っていられなかったが、浸かってみるとそんなに熱くないような気がした。
「思ってたほど熱くないね」
「あの壁、明るくなってない?」
お姉ちゃんには、湯加減があまり気になってないようで、懐かしそうに辺りを見回している。
わたし達の胸から下は暗褐色に溶け込んで、足元は全く見えない。じわじわと足元から熱くなって来た。
「やっぱり熱いや。出るね」わたしは浴槽を出て、湯冷まし休憩所へ出るガラス戸を押した。外の空気がひんやりとして気持ちいい。六畳ほどのスペースは、高い仕切りに囲まれて、おもてからは見えないようになっている。ここはたしか露天風呂だった筈だ。藤製の長椅子に腰かけた。周囲には、シマトネリコ、アガパンサス、ハイノキ、フェイジョア、ヒューケラなどが植えられていて、気分が安らぐ。
お姉ちゃんはと見ると、結露したガラスの水滴の点描の中に沈思黙考している。ああやって、お姉ちゃんはよく考え事をする。
「わたしね、考えちゃうんだ。いろいろ。考えていないと、わたしがなくなって行くような気がして」と言っているのを、一度聞いた事がある。わたしはそんな事はない。深くは考えない。ひらめきと直感に頼って来た。そういうところは母に似たのかもしれない。
脱衣所のロッカーの前で、タオルで髪を拭いているお姉ちゃんに、ねえねえとお風呂から上がったばかりのわたしは声をかけた。なに?と振り返ったお姉ちゃんと目の合った瞬間、わたしは「アッシャーッ」と叫んでジャンプした。お姉ちゃんの眉間に怪訝そうな皺が寄った。わたしは再び、「アッシャア」と叫んでジャンプした。
「ちょっとお、やめてよお。みんな変な顔して見てるじゃないの」
「昔、よくやったよね」わたしは思い切り無邪気な笑顔を、お姉ちゃんに向けた。そして二度ジャンプした。回りの人達は、無関係無関心といった風を装って白けている。
そんな回りの反応をよそに、わたしの魂はますます荒ぶって、「アッシャー家の崩壊」の動作を完成させた。お姉ちゃんは髪を梳きながら、わたしをじっと見て、「ちょっとお、裸で何やってんのよお」と道理のよく分かった人のような事を言うので、お姉ちゃんに「モルグ街の殺人」の動作を要請した。
お姉ちゃんは黙って髪を梳いていて、全くやる気がない。調子に乗っているわたしは、「モルグ」「がいの」「さつ」「じんっ」と最後に飛び跳ねた。着地した途端に大きなくしゃみが出た。わたしは急速に素に戻って、そそくさと下着を身に付け始めた。
温泉のタイルのぬめり辛夷咲く 北大路翼 『週刊俳句』第415号
2016-05-01
〔その後のハイクふぃくしょん〕黒湯 中嶋憲武
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