俳句雑誌管見
ソーダ水
堀下翔
ソーダ水
堀下翔
初出:「里」2014.12(転載に当って加筆修正)
あの頃といふころありしソーダ水 行方克巳「知音」2014.10
ソーダ水もいいかげん詠まれることに飽きているに違いないのだ。富安風生が〈一生の楽しきころのソーダ水〉とうたったのは昭和25年の『朴落葉』だから、以後60年、俳人は――仮に俳句という表現を行う意味が、なんらかの新しい記述の獲得にあるとすれば――人生の回想とソーダ水を取り合わせる必要はなかった。いや何も〈一生の楽しきころのソーダ水〉が数直線の原点であることを決めてかかる必要もない。それ以前のいずれかの時点においてこのようなソーダ水を記述した句が生まれている可能性は大いにある。ソーダ水はわれわれの前に先行して立っている。そこへ平然と現れる「あの頃といふころありしソーダ水」はやはり痛々しい。
ところで言うまでもないが〈あの頃といふころありしソーダ水〉は感傷的だ。風生は「楽しかりしころの」とは言わなかった。回想をしながらそれを今のソーダ水だと言い張った。だからこの句はあるいは目の前の子供が飲んでいるソーダ水でいい。翻って克巳は「ありし」と言う。ソーダ水は克巳自身の過去に回収される。どこまでも自分のものである。
新しい記述を求める表現者としての欲求にもまさるのが人間の回想欲求かもしれない。〈あの頃といふころありしソーダ水〉の痛々しさを見るにつけ、おこがましくも十八歳の筆者は、人生の長さと奥行きを思い、かつ、いつか自分もまた〈あの頃といふころありしソーダ水〉と詠まずにはいられなくなるかもしれないと予感するのである。
おそらく〈あの頃といふころありしソーダ水〉は軽々しいセンチメンタルではないのだろうな、と思うのはこの句が次に置かれているがためであった。
闇深かりし三矢サイダーありし頃 行方克巳
「闇深かりし」とはどういうことであろう。まったく何も叙述することなく克巳は自分のみが知る「闇」を回想から運び出し、世界へと投げ出してしまう。一方でこの句は何一つ嘘をついていない。だから少なくともその点において筆者はこの句が胸に引っかかってならない。克巳はこの句を自分の過去のひとつひとつに照らし合わせながら作っている。ある事実として「三矢サイダーありし頃」の闇が深いのではない。それならば「闇深し」と〈その頃〉を〈今〉詠めばよかった。いまや克巳しか知らないこの「闇」を、彼は「闇」のまま確かめるようにしてうたう。
そしてなによりこの句が嘘をついていない点は「三矢サイダー」という言葉にある。こんなサイダーはない。あるのは「三ツ矢サイダー」である。克巳はきっと昔からこのサイダーを「三矢サイダー」だと思っていた。俳句として名前を書きつけ発表するに際しても、ウェブや店頭でその名前を確かめる過程を経なかった。記憶の誤謬は正されず、結果として固有名詞は過たれた。だがむしろ、記憶にある名前を確かめることなく書きつけられた「三矢サイダー」は、この句の成立の正直さをもっとも体現してはいないか。自分しか知らない「闇」をほとんど自分のためだけに記述しようとするとき、このサイダーが「三矢」であったか「三ツ矢」であったかに気を配るだけの余裕を持つ方がよほど俳句に対して不誠実ではないのか。筆者がこの句を信用するのはこの点に他ならない。
〈あの頃といふころありしソーダ水〉にせよ〈闇深かりし三矢サイダーありし頃〉にせよ、これらは何も言っていない。またもやこのような形で詠まれてしまったソーダ水に同情し、痛々しく思う。しかし一方でまた、回想の欲求に突き動かされ、嘘偽りなく書かれたこれらの俳句の成立がどこか胸に引っかかる。この句にこだわる筆者は幼いかもしれない。正直であることはあくまで俳句で何かを書こうと思い立ったときの出発点だろう。それを承知したうえでかつこれらの句を引き受けることにこそ、俳句を書くことへの誠実さがある気がする。
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