2016-06-26

鴇田智哉インタビュー 季語・もの足りること・しらいし 聞き手:西原天気

鴇田智哉インタビュー
季語・もの足りること・しらいし

聞き手:西原天気


■結社から無所属へ、同人へ

Q◆
鴇田智哉さんは、2014年秋の『凧と円柱』刊行から、2015年は同人誌『オルガン』創刊。そのあたりの経緯について、お聞かせください。

鴇田智哉(以下・鴇田)◆
2014年の1月から、結社無所属となりました。句集『凧と円柱』を出すにあたり、あの句集には何句か無季の俳句が入っているという事情があって、有季定型の結社を辞めました。

Q◆
辞めたのは自発的にですか、それとも、圧力とまで言わないまでも、無季句の発表について問いただすような声が、結社にあったのでしょうか。

鴇田◆
圧力というより、もっときっぱりとしたものでした。主宰の方針に尽きます。句集を出したいということを主宰に相談し、無季の句も入れたいという旨を伝えたところ、その場合は、残念だが結社を辞めてもらわないといけない、ということでした。

Q◆
厳格ですね。

鴇田◆
結社が有季定型を標榜しているため、その同人である私が無季の句を発表するのは、方針に反しているということになる。だから辞めるということです。

私自身は、有季定型は、俳句の教育においてとても有効な手段だと思っています。だから、結社が有季定型に従うのはよいと思っています。そのうえで、「結社は教育機関であり、その機関の中では有季定型にのっとるが、個人の作品集である句集はその限りではない」というのが私の考えでした。しかし、その考えは、受け入れられませんでした。

このあたりの事情は、結社により、その主宰の方針により、違うと思います。私のいた結社は、けっこう固かったのだと思います。

Q◆
無所属になると、とうぜん、ふだんの俳句活動に変化がありますよね。

鴇田◆
結社時代は、月に3回ほど句会があったのですが、それが無くなりました。で、句会をどうしようかと思っておりましたが、結社を辞めて見回してみると、けっこう、世の中ではいろいろな句会というものが有志で開かれており、そこに割と自由に参加できることがわかりました。で、幾つか句会にもお邪魔させてもらいました。

そのうち、6月に私から呼びかけて、立川で句会をしました。それが定期化し、月1回のbiwa句会となり、現在も続いています。

そのbiwa句会を何度か重ね、句会のあと話したりしているうち、田島健一くん、宮本佳世乃さんと、同人誌をやろうかという話になりました。

Q◆
それが『オルガン』ですね。

鴇田◆
もともと、同人誌をやりたいという思いは、結社を辞めたあとの私個人の中に育っていました。理由のひとつは、自分の作品の発表の場がほしいということでした。無所属になると、定期的な作品発表の場がなくなるので。

理由のもうひとつは、俳句について、人と一緒に考えたり話したりしたことを、形にする場がほしいということでした。田島くん宮本さんとは、以前から割と話す機会もあり、一緒に句会をするようになってからは、さらにこの2人から刺激や影響を受けてきたので、一緒に何かやれたら面白そうだな、と思いました。

そして、俳句にのめりこんでいる生駒大祐くんに声をかけ、4人で同人誌『オルガン』始めました。その後、俳句にのめりこんでいるもう1人、福田若之くんが加わり、『オルガン』は5人でやっています。

Q◆
メンバーからの影響とは、例えば?

鴇田◆
客観的にわかりやすい面としては、リズムとか、俳句の形の影響が強いです。最近の句で、

  部屋は水母の紐の階段つらなれり   鴇田智哉

があります。「部屋は水母の」の部分の音感が独特です。今まで私は、

  地は秋の車の中の一家族     鴇田智哉

の「地は秋の」のように、上五の音数を五にまとめることに気持ちを向けていましたが、七音以上に緩ませるのも、ときにはアリかなと思うようになりました。

「地は秋の」があくまで一句全体の中の上五、つまりは一句の中の三分の一という感じに納まっているのに対し、「部屋は水母の」は一句から五割増しではみ出たようなボリュームがあると思います。これは田島健一からの影響ではないかと思っています。

もう一句。

  うすばかげろふ罅割れてゐる団地   鴇田智哉

「うすばかげろふ」で切れて「罅割れてゐる団地」があるわけですが、今まで私はこういう場合、二者の間に助詞を伴ったなんらかの繫ぎを入れていました。この句はそれが全くない形です。骨だけを投げかける感じ。こういうのも時にはよいかと。これは宮本佳世乃からの影響かと思っています。


■季語と「物足りる体(てい)」

Q◆
同様のメールインタビューを柳本々々さんにもしたとき、「鴇田さんに質問してみたいことはありますか?」と聞いたところ、次のような回答が来ました。

〔鴇田智哉さんがかつておっしゃられた言葉に《今まで自分は、俳句に季語を入れることで、一句に「物足りる」体を付与してきたところがある。でもそんな必要はあるのだろうか、そもそも俳句に「物足りる」という必要はあるのだろうか、ということも含めて考えていきたい》という言葉があって、わたしはよくこの鴇田さんの言葉について考えているんですが、このときたぶん〈俳句の境界〉や〈俳句の臨界〉のようなことについて考えておられたんじゃないかと思うんです。それで、〈いま・現在〉鴇田さんがご自身のこの言葉を読んでどう思われるかをお聞きしてみたいです。〕
鴇田◆
「季語」と「もの足りる体」ついては、その頃からずっと考え中です。

『俳句文学館』2016年2月号への寄稿でも触れたのですが、例を挙げますと、以前、

  南から骨のひらいた傘が来る

という句が浮かびました。季語がありません。当時私は有季定型を標榜する結社に所属していたので、

  みなみかぜ骨のひらいた傘が来る

と季語を入れて、発表しました。季語を入れることで、句に「もの足りる体」を付与したわけです。

どのように「もの足りる」のかというと、まず歳時記の「南風」の欄を見ればわかるのですが、夏の季節風であり、暖かい湿った風であり、……とまだまだ続く長い情報をいちおう、その句が纏う空気の中にすべて含んだことになる。そして、同じ季語を使った過去の誰かの句をすべて含んだことになる。上記の句の場合なら、「みなみかぜ」が平仮名表記ということもあり、たとえば、

  南国に死して御恩のみなみかぜ 攝津幸彦

の風情などが浮かぶでしょう。目の前の句が過去の句をふまえているという、知的満足感を、作者がもつだけでなく、読者にもあたえることになります。そのあたりすべてを含めて「もの足りる体」というわけです。

そして数年後、句集をまとめるときになり、この句を見直しました。「季語を入れなければならない」という決まりを外した場合、「南から」と「みなみかぜ」どちらがいいのだろう、と考え直しました。結論としては、

  南から骨のひらいた傘が来る

を句集『凧と円柱』に入れました。句を最初の形に戻したわけです。

理由としては、まず、「みなみかぜ」より「南から」のほうが、「骨」のという言葉の印象が強まり、ひらいた傘のフォルムがはっきりと心に焼付くように思ったからです。私は、一句全体を、風にでなく傘に引っ張らせたかったんだと思います。「みなみかぜ」だと「かぜ」という言葉があることにより、「風がふいたからこうなった」という理が生じ、傘へと視点が集中していく感じが薄れるのではないでしょうか。

Q◆
たしかに。

鴇田◆
そもそも私がこの句に求めているものは、がちがちの歳時記的な季感や光景ではないことを思いました。夏でなくてもいいのですが、しいていえば眩しさや遠い茂み、「南」という言葉がかろうじて醸し出す程度のほんのまばゆい雰囲気、遠い植物めいたもの、そのくらいがあればいいのだということに気づきました。

ここからわかるのは、「みなみかぜ」が含む、歳時記によりかかったひきだしと同様に、「南から」には言葉による別のひきだしがあるということです。ただ、そのひきだしには、個人差があります。ひきだしの背景に歳時記のような「特定の書物」が存在していないためです。

「南から」には、私が今言ったような、かすかな眩しさ、遠い植物らしきもの、ではないひきだしもあるでしょう。たとえば磁石や砂鉄のイメージとか。それでも私は、この句を「南から」としてよいと判断しました。その言葉がもつ広さと限界とを想像しつつ。最後は直感です。

Q◆
「みなみかぜ」を選べば、歳時記の伝統とともに、先行テクスト(攝津の「みなみかぜ」)を背負うことになる(「ひきだし」という用語)という指摘はたへん示唆深い。「南から」がもつ「特定されない書物」というひきだしを選ぶことは、俳句の決まり事=歳時記から自由になると、解しました。それによって、作品が読者に向かって、より開かれたものになる、と解していいのでしょうか。

鴇田◆
句によると思いますが、「南から」の句については、そうだと思います。

「南から」→「みなみかぜ」の変更は、作者がわざわざ作品を狭めている感じがしましたので、「南から」へ戻すのは、作品が読者へより開かれたことになると思います。

ただ、有季から無季にすれば全てそうなるということではないです。たとえば、

  神宮球場から骨のひらいた傘が来る

としたなら、スワローズの応援団(?)とか、狭い解釈を呼び込みます。

それはさておき、「みなみかぜ」→「南から」という変更は、〝歳時記が共通の拠り所であるという感じ〟からの解放ではあると思います。

私はここで、「感じ」までを〝 〟で括りましたが、それは私がこの「感じ」という半ば無意識な感覚のところに引っかかっているからです。

読者は、半ば無意識に歳時記という権威に寄り掛かってしまう。寄り掛かっているという自覚もないままそうなる。

その度合いが強くなると、読者はしぜんと権威を着、しぜんと「正しい解釈」を振りかざす。

たとえば、ある句の鑑賞を書く場合に、その句に使われている季語の本意のようなところに触れることで、その句を「読んだ」ことになってしまう。

季語をネタにして、一句についてそれなりに鑑賞文ができあがってしまう。

この「一丁上がり感」は嫌だなあと、私は思っています。

〝拠り所がある〟ことは別に悪いことではないのですが、そこに寄り掛かりすぎると、表現とか、解釈とか鑑賞とかが、悪い意味でゆるんだものになる。なあなあになるというか。

「南から」は、その「一丁上がり感」から解放したかったというのがありますが、いつも私は、季語を使うときも、作った句が一丁上がり的に読まれないように願っています。

有季の場合でも、季語に重みがかかりすぎないように作っているところがあります。

Q◆
「一丁あがり感」、含蓄です。ただ、不特定の、広範な「ひきだし」は、作者が効果をコントロールできないことになりませんか? それでかまわないという立場でしょうか。コントロールとは、作者のしつらえが読者の感興の質に反映される、くらいに考えてください。

鴇田◆
コントロールできない、ということにはならないと思います。

ただ、そもそも私は、コントロールというものをそれほど決定的に考えてはいません。基本的には、俳句において、コントロールできない部分は広いと考えています。季語を入れている場合でも入れていない場合でも、コントロールを意識する度合いは同じぐらいです。

というわけで、効果をコントロールできるかできないかは、俳句に季語が入っているかどうかには関係ないと思います。

Q◆
季語という「原典」の参照いかんではない、ということですね。


■有季定型という眼鏡

鴇田◆
例をもう1つ。

  輪郭がとんで石灰山にひと

十七音がいちどきに浮かんだ句です。以前の私なら、季語が入るように直して、

  輪郭がとんで二月の山にひと

などとしていたと思います。こうすると、「もの足りる体」になります。しかし、有季節定型という眼鏡を取り外して、二つを並べてみると、「二月の山」に比べて、「石灰山」がもの足りないという感じはしませんでした。この句は、元句のまま『凧と円柱』に入れました。この場合も最後は直感です。

このように、

1 有季定型の眼鏡を取り外す

2 最後は直感

という方法で、今は作品とかかわっているのですが、答えがはっきりと出ない場合もあります。それについて、最近の具体例を挙げてみます。歩いていてふと、

  首から上を空といふ

というフレーズが浮かびました。これにどんな上五をつけるか、と考え、

  はつなつは首から上を空といふ

としました。季語をつけたわけです。

有季定型の眼鏡をかけて見るなら、この句の場合、「はつなつは」は悪くない選択だと思います。「はつなつは」がついたことにより、「首から上を空といふ」が「はつなつ」という季語の情緒に引き込まれ、「もの足りる体」になります。

「もの足りる体」を求める感覚、それは、歳時記という書物の世界観にとけこんで安らぎを得ようとする感覚です。その一方で、このような季語の安心感によりかかってしまう予定調和感覚には、正直、うんざりする思いもあります。それで、

  しらいしは首から上を空といふ

としてみました。「しらいし」は口をついて出た言葉ですが、十中八九、人の名前でしょう。そんな友達が昔いたようにも思いますが、それはどちらでもいいことです。「はつなつは」の健康さとは違って、きょとんとした気分が出るのではないでしょうか。

Q◆
おっしゃるとおりです。きょとんとしてる。

鴇田◆
有季定型という眼鏡をかけて見るなら、「しらいし」はもの足りなく、弱いです。しかし、眼鏡をとって見たら、「はつなつ」も「しらいし」も同程度の重みをもっているのではないだろうかと考えます。どちらも、「首から上を空といふ」というフレーズに対して、ある強さをもった捩れを与えていることは同じだと考えます。

とすると、この句の上五は、「しらいしは」でも、いいのではないでしょうか。あとは作者として、どちらの句を選ぶか、というだけの話になります。たまたま、『オルガン』3号の題詠テーマが「上五」だったので、「しらいしは……」の句を、その中の1句に加えました。『オルガン』第3号のテーマ詠「上五」は、メンバーの句が面白いので、多くの人にぜひ読んでほしいです(と、ここで宣伝)。

今はこのようにして、私は自分の作品に関わっています。季語がないと「もの足りない」理由、それは、有季定型という眼鏡をかけているからに過ぎない。と、思うようにして、私は過ごしています。

ただ、先に言ったように、ずっと考え中であり、はっきりとした結論が出ない場合が多いです。この句の場合も、本当に「しらいしは」でよかったのか、まだわかりません。

「季語」と「もの足りる体」については、『凧と円柱』それ以前から考え中です。


■「鯉のぼり」は「お化け」

Q◆
季語に関して、お聞かせください。第一句集にあえて例をとります。《畳から秋の草へとつづく家》と《ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり》。畳は共通ですが、それぞれに季語にあたる部分、「秋の草」と「鯉のぼり」は、かなり異なるアプローチに思えます。簡単にいえば、前者は伝統に則ったもの、後者はさにあらず。とくに「鯉のぼり」は、意図的に思えます。このあたりはどうなのですか。曖昧な質問ですが。また、自句自解を強要するのなら、遺憾ですが。

鴇田◆
この二句には、句の捩れ所が季語にあるか、ないかの違いがあると思います。

作者として言うと、句の構造として、二つの句は似ています。つまり、

畳+秋の草
畳+鯉のぼり

という核があり、それを周囲の言葉がどうつないでいるか、という構造です。作者としては、どうつなぐのか、ということしか考えていない。問題は核をどうつなぐかであり、それが作品の個性になります。

結果、前者は「……から……とつづく家」、後者は「ゆふぐれの……白い」という繫ぎが見いだされました。作者から見ると、どちらの句も同じくらい捩れています。

ただ、出来上がった二句を並べて見ると、捩れ所が季語にあるか、そうでないかが違う。

前者は「へとつづく家」に捩れがあるのに対して、後者は「に白い鯉のぼり」に捩れがある。読者としては、季語「秋の草」はすんなり読めるので、そこでは捩れない。これに対して、季語「鯉のぼり」にはちょっと引っ掛かりがある。「鯉のぼり」がノイズを発している。なぜかというと、畳に重ねる対象としては、「秋の草」よりも「鯉のぼり」のほうが思い描きにくいからでしょう。で、「鯉のぼり」で捩れることになる。

Q◆
ノイズ。よくわかります。肯定的な意味でのノイズ。

鴇田◆
昔これを句会に出したとき、師の今井杏太郎が、「この〈鯉のぼり〉は、つまりは『お化け』だ」と言ったのを思い出します。

この「お化け」が表していたのは、一種の違和感ではあるのでしょうが、俳句の構造上の話として、ここは必ずしも「鯉のぼり」でなくともよい、つまり入れ替え可能である、ということであったように、私は思います。

下五に何が置かれるか。作者の最終的な結論として「鯉のぼり」が選ばれるとしても、あくまで前提としては、必ずしも「鯉のぼり」でなくともよいということではないか。この句の場合は、「鯉のぼり」が選ばれたことで、他のものが選ばれた場合に比べて、「お化け」の様相を呈したということなのではないかと。

ここまで見てくると、二つの句における「季語」のありようは、だいぶ違うように思います。ただそれは、出来上がった作品の構造を読者として分析すると、そうなるということです。作者としての私には、「秋の草」の句の場合と同様「鯉のぼり」の句についても、あくまで最初から「畳+鯉のぼり」のモチーフがあったので、そこが動く可能性は低かったと言えます。

Q◆
最後に、がらっと質問を変えて。俳句とは離れますが、最近、おもしろいと思う音楽、よく聴いている音楽は?

鴇田◆
アニマル・コレクティブという人たちの曲で、



が、前から好きだったんですが、最近これを、Tall Tall Treesという人(?)が1人でやっている楽しい映像をユーチューブで見つけて、



感動しました。

改造(?)バンジョーが笑えますが、しかもそれがカラフルに光ってる。そしてアレンジがいい。演奏と歌が巧い。

Q◆
おもしろいですね、トール・トール・トゥリーズ。ワンマンバンドの魅力。ライブ映像ならでは、ですね。長いあいだ、ありがとうございました。鴇田さんの近況とともに、長期のスパンで考えてこられたこと、その一端を、とても具体的なかたちで示していただきました。『オルガン』も注目させていただきます。



🔣「オルガン」のウェブサイト
http://organ-haiku.blogspot.jp/

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