あとがきの冒険 第2回
夢・遡行・覚醒
安福望『食器と食パンとペン』のあとがき
柳本々々
絵と短歌のアンソロジー『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』において、歌に絵をつけた編著者である安福望さんは「おわりに」で次のように書いている。
夜、なかなか眠れないときに、好きな短歌のことを考えます。目を閉じてくり返し考えているうちに、眠ってしまったり夢をみたりします。
この安福さんの〈あとがき〉における「短歌」からそのまま〈眠り〉に入ってゆくアクセスの仕方は、この本の構成と非常に深く関わっているとわたしは思う。どういうことか。
この絵と短歌のアンソロジーは次の短歌で始まり、次の短歌で終わっている。引用しよう。
近づけば光らない石だとしても星 それぞれに夢を見ている 田中ましろ
寝た者から順に明日を配るから各自わくわくしておくように 佐伯紺
このように当アンソロジーの始まりの歌と終わりの歌を並べてみると、「夢」の短歌で始まり、〈入眠〉の短歌で終わっていることに気がつく。つまり、安福さんのふだんの短歌をめぐる行為〈入眠→夢〉という流れを逆に行ったのがこの本の構成の流れ〈夢→入眠〉なのである。
そう、この本の構成的おもしろさは、〈夢〉をみてから〈眠る〉ところにある。〈眠って〉から、〈夢〉をみるのではないのだ。
なぜそのような《遡行》が起きたのだろう。
それは〈夢〉というイメージそのものが安福さんにとっての〈短歌〉だったからに他ならない。安福さんにとって〈短歌〉は読むもの・解釈するもの・説明するものである前に、なによりもまず〈見る〉ものであるのだ。
短歌は夢に似ているような気が最近していて、しかもその夢は自分の夢ではなく、全く知らない他人の夢なので、見るものすべてが新鮮です。
だとしたら、短歌をこういうふうに言うことはできないだろうか。短歌とは、〈覚醒された夢〉なのだと。ひとは、起きながらに夢をみることができる。そして夢をみたあとで、眠ることができるのだ。〈あとがき〉はその〈覚醒された夢〉という逆説を率直に示した。
「あとがき」という広大なふとんにおいて、ひとは夢をみる。いや、こう言ったほうが適切かもしれない。「あとがき」自体が、「あとがき」そのものが、夢をみることがあるのだ。眼をみひらいて。
(安福望「おわりに」『食器と食パンとペン わたしの好きな短歌』キノブックス、2015年 所収)
0 comments:
コメントを投稿