2016-08-28

BLな俳句 第10回 関悦史

BLな俳句 第10回

関悦史


『ふらんす堂通信』第145号より転載

青年の頬の間近さ春の雨  飯田龍太『童眸』

龍太が若い男性を詠んだ句には、水や肌がよく出てくるがこの句もそうだ。

「頬の間近さ」というのはいかなる状況を思えばいいのか。

野外でのことか、それとも春雨に濡れた後、混雑したバスや電車のなかでの否応なしの接近といった場面を想像すればいいのだろうか。

口や目ではなく、頬である。向きあって対話しているとは思えない。

語り手は横から見ているらしいが、「間近さ」には不意に接近に気づいて驚いたという劇的な感触がある。龍太が男性を詠んだ句のなかでも、急な接近という要素が感じられるものはちょっと珍しい。

強いて限定する必要もないが、雨宿りに飛び込んだ軒先等で突然一緒になった青年といった辺りを思い浮かべるのが妥当なのだろう。


近き夜空に男の固さ夏の富士  飯田龍太『童眸』

この句の「男」はメタファーで、夜空に見える「夏の富士」の「固さ」が男を思わせるという意味で使われている。

龍太の句に現れる男は、年若な者であれば水と親和し、年上の者であれば端然としているというのが美のひとつの基準となるらしい。

夜の暗さのなかで、じかにさわれる距離にはない夏の富士を「固さ」と触覚的に感じ取っているさまは、あたかも夏の富士に抱き締められているようである。そして「夏の富士」は端正で力強くはあるが、強引でもなく、マッチョでもない。親密であり、同時にただただ圧倒的である。

BLマンガや小説には、人間以外のわりと突拍子もない者と関係を結ぶ作品も少なくないのだが、山自体と交流する作品があるのかどうか。もしなければ、龍太一人の独自のジャンルということになる。


裸子の白歯風湧く友呼ぶ時  飯田龍太『童眸』

季語「裸子」は文字通り裸の子供だが、少なくとも言葉が話せて、友達ができる年齢には達しているようだ。小なりとはいえども、もう一定の社会性を持った人間にはなっているのことである。それが裸のままで友を呼んでいる。無垢、無邪気でいられるぎりぎりの年齢ということだろう。

中七の「白歯風湧く」はやや詰め込んだ表現。明眸皓歯といえば美人のことだし、より即物的にくだけた「白歯」も、また「風湧く」も美しさを引き立たせようというという狙いだが、全身像である「裸子」と局部である「白歯」が並んで、像を結びにくくなった感はある。美しさを引き出そうとして観察者の視線と意識の方が目立ってしまっているのだ。この句の世界をイメージしようとするならば、まず友の名を呼ぶべく開かれた口から覗く白い歯を想い、そこから、その全身がじつは裸であるというふうに広げていくべきなのだろう。このとき、「白歯」→「風」→「友」→「呼ぶ(という行為)」→「裸」は、自然のなかに展開される一連の白い輝きと化すのである。

似たモチーフの句としては〈松青き冬少年の唇あざやか〉(『童眸』拾遺)も、「あざやか」な少年の身の開口部たる「唇」と「松青き冬」という凛然たる自然との照応から清潔なエロスを出している。

一方、同じ少年と自然との照応でも〈少年に山百合遠し川ふかし〉(『麓の人』)では、山百合を採ろうとしている少年の身に、障害となる遠さと水深を通して「山百合」や「川」が浸透し、少年自身が山百合のように華やかで、川のように清冽な身体へと変容している。いずれにせよ龍太の少年句における自然美は、ただのアクセサリーではないのである。


花明りしてやはらかき男の手  飯田龍太『忘音』

ついにさわってしまったのだろうか。

この句においても「花明り」は「男の手」と照応しあっている。つまり男はその身を花明りと交通させあい、半ばは花明りそのものと化している。いやむしろ、ただの「花明り」でもただの「男の手」でもない、両方の性質を帯びた第三の何かといった方が適切だろう。「花の精」とでもいってしまえば通りがいいのかもしれないが、そうした陳腐な常套句を避けながら、言葉でなければ組織できない「花明り=男(の手)」という化合物を作りだして見せているところがこの句の美点である。その曖昧な化合物を「やはらかき」の触覚性が、不意に肉体のレベルに引き戻す。情愛も通う。

これは歴然たる恋の句と見てしまっていいのではないか。

〈さびしくて梅もぐ兄と睦みゐる〉(『春の道』)では「手」の具体性は「梅もぐ」に向けられ、語り手と直接触れあってはいないようだが、代わりに状況と関係がはっきり書かれることになった。「さびしくて」とはいうものの、「梅」と照応し、化合した「兄」との睦みあいは、まわりの山河をも含み込んでいてほとんどユートピア的である。


目の大きな子供なりしが入営す  中村草田男『長子』

かねて見知っていた子供が成長し、兵隊に取られる時が来てしまったという句。

物よりは事柄を描いているということになるが、「入営す」の現在形と、そこに重なり合う「目の大きな子供」のイメージで具体の手応えへと寄り戻した格好である。

よその子の成長は速く感じる。語り手からすれば、この新兵は今でも「目の大きな子供」のままなのだ。「兵隊」となってしまえば、もはや個別性も人格も剥ぎ取られた群体である。この句はその兵隊を「目の大きな子供」という一個人のイメージへと引き戻し、その個別性がまさに奪われる日を描いている。声高に反戦を訴えたりせずとも、過酷さと子供への哀惜が伝わるのはそのためだ。

子供の綺麗さ、純真さが際立つが、それは今まさにそれが奪い取られようとしているからなのである。逆に考えれば、「入営」のような過酷で理不尽な現実も、句中での使いようによっては、少年美を際立たせるために活用し得るということであり、これはBL的な想像力が「現実」に足払いをくらわせる際のひとつの方法となるのかもしれない。


七夕や男の髪も漆黒に  中村草田男『長子』

七夕の浴衣姿がさまになっている男性のイメージが浮かぶ句である。

「男の髪も漆黒に」は、女の髪の美しさがまずあり、それに男も張り合っているような表現だが、それが却ってつややかでありながら、厳しく引き締まった美観を強調している。

「七夕」を牽牛と織女の年に一度の逢瀬ととらえれば、「男の髪も」の「も」の隣に「女の髪」もあってもおかしくはないはずだが、句のなかにあるのは、漆黒の髪の美しさのなかに、そうした性関係や性的魅力をも封じ込めた、一人の男の立ち姿なのである。


城址(しろあと)に立膝少年夏霞  中村草田男『美田』

立膝といえば『新世紀エヴァンゲリオン』での渚カヲル初登場のシーンも立膝だった。あちらは水辺の残骸の上でのことだったが、この句の「城址」もかつての戦いを示す場所であり、大きな暴力が吹き荒れたあとの静かな地で何ごとかを思う少年はこういうポーズになるものらしい。気障と見れば気障な、リラックスしていると同時にいつでも動きだせる緊張感もあり、自分のなかに籠もっているのと同時に人を誘い入れているような両義的な姿勢である。

そして海の代わりにこの句を満たしているのは「夏霞」である。この水気が、単なる干からびた名所旧跡としての「城址」と「少年」の「立膝」とを接着し、一句を生動させているのだが、そのわりには少年の内面性はさほど引き立ってはこない。たまたま目にした、いかにも絵になる風景として書かれた句である以上仕方がないが、一方こうした「少年」「立膝」「戦跡」「水気」のイメージは、ひょっとしたら案外古くからあちこちに見られるものなのではないかという、図像学的な興味が湧いてきたりもする。例えばいかにも「絵になる」絵ばかり描いてきたラファエル前派の画家たちが、ああまで女性ばかりでなく、少年を描いたらこうもなったのではないかというような。


うつとりと友と見合ひき汗拭き終へ  中村草田男『銀河依然』

草田男には、対象を巻き締めていくようにはたらく視線の強烈さが印象的な句が多いのだが、この句では「友」と対等に見合っている。見惚れあっているというべきか。何ごとか激しい運動をともにした後のことらしい。服を脱いでもいるようである。脱がずに額の汗を拭いた程度では、半ば放心したような「うつとりと」には至らないであろうし、そもそも「拭き終へ」というほどの作業量にもならないからだ。これは全身か、少なくとも半身の汗を拭っていなければならない。

心地よい疲れのなかで友と共有する陶然。「うつとりと」には邪心めいたものもなく、当たり前のことのように自分たちの身体を視認しあっている。しかし同性愛的であることを別としても、ここにはかすかな不穏さがありはしないか。鏡像のように同じ動作を終えた同格の存在と、陶然と(つまりほんの少しだが意識に変調を来たしつつ)見合っているという図は、水鏡に映る自分に恋焦がれて死んだナルキッソスが夢見ても得られない世界であろう。

汗を拭き終えてうっとりと見合う「友」には、自分と他人、友愛と性愛の境界を静かに攪乱する力がある。ここにはなまめかしい分身というモチーフが潜在しているのだ。

 *

関悦史 葱

身の軽き美童のごとく五月来る

繃帯や初夏少年を巻き締めたき

保健室に昼寝し兜合はせの夢

男子生徒の半身透り大雷雨

日焼美しき悪ガキ同士なるAV

Tシャツの青年男を盗み撮る

今触れたら友でなくなる夏の月

紅葉山衆道を嘉しゐるごとく

来ちやつたと立つ青年や葱など提げ

ヒーローショー蹴り上ぐるとき尻春光

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