あとがきの冒険 第5回
七十・一・三
関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』のあとがき
柳本々々
「あとがき」は「あと」と称されながらも「いま」書かれるものである。〈いま〉を引き受けつつ、〈いま〉と競り合いながら、〈いま〉に追い越されそうになりながら(そして実際追い越されながらも)、そのまま駆け抜けながら書くのが「あとがき」なのだ。
いったいなにを言い始めたのか。
関悦史さんの句集『六十億本の回転する曲がつた棒』の「あとがき」を引用してみよう。
句集表題の「六十億」はもちろん地球の総人口を踏まえてのものだったが、間抜けなことにというべきか、刊行が延びていた三ヶ月ほどの間に人類は七十億を突破してしまった。生老病死の渦中に投げ込まれた心身がわずかの間にそれだけ増えたということである。時の流れと、その中における個々人の生の取り返しのつかなさ、そしてそれら全てを包摂する或る無窮の明るみとが、人口増加の潜勢力とその発現との時間的ずれという形で句集表題に封じ込まれる、そういう時点にたまたま巡りあわせたものと受け止め、あえて「七十億」への改題はしないことにした。
〈いま〉に追いつかれ、思いがけなく〈いま〉を受け止めそこねたものの、その受け止め《そこね》たことをも「時の流れ」としてひっくるめることによって、かろうじて〈いま〉を引き受けようとすること。この「あとがき」には〈いま〉に「たまたま巡りあわせた」〈一〉人の人間の積極的受容としての〈今〉がある。
〈いま〉を引き受けるということは、追いつかれたことに対して〈改ざん〉しようとする姿勢なのではない。むしろ追いつかれ、追い越されたことに対して「改題はしないこと」として「受け止め」、「時間的ずれ」をそのままに句集に「封じ込」めておくことなのである。それが「あとがき」が胚胎する時間のありようなのではないか。「あと」はその意味で、〈後ろ〉にあるのではない。もちろん〈前〉でもない。時の繁みをわけいった、〈奥〉にあるのだ。
死別を経て私は或る感覚の変容を経験し、それまでの自分の句が妙に平板に感じられるようになって旧作のあらかたを捨てた。
ここにも私は〈俳句〉が追いつかれてしまった〈いま〉という時間のありようをみる。「死別」をとおして時間の〈奥〉がふいにあらわになった瞬間を。
〈書く〉という行為が、書いてきた時間をも追い越されるような時間=現実に出会ってしまうということ。時間の〈前/後〉が、歪み、時間の〈手前/奥〉という点がうねりとなり三次元になるしゅんかんにたちあってしまうこと。
かつて宮崎駿はこんなふうに述べていた。
地震は来るし、原発は爆発するんですよ。それじゃなかったら『ナウシカ』なんか描かないですよ。もうとっくの昔に終わってるんですよ、僕は『ナウシカ』を描いて、現代については『もののけ姫』で描いたから。…それよりも追いつかれちゃった方がすごいと思って。現実の方がもっと早く進んでるなと
(宮崎駿『続・風の帰る場所―映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』ロッキング・オン、2013年)
わたしたちは単線的な時間を生きているわけでも、単線的な〈いま〉のなかで書いているわけでもない。ある時間に追いつきながら、そして次の瞬間、ある時間に追い越されながら、それでも〈書く〉こととして感じられたものを〈書いて〉いるはずだ。ときに負け戦をひきうけながら。それが〈いま〉のなかで〈書かれた〉ものである。その意味で「あとがき」というものは存在しない。「さき」に相対される「あと」なんてないのだ。
「あとがき」はつねに追いつかれ、追い越される。しかし「たまたま」そのときだけしかありえなかった〈あきらめの時間〉を胚胎する。「あとがき」は「あと」だけれども「いま」であり、「いま」だけれどもかつては「まえ」にあったものだ。そしてそれらの方位が回転エネルギーによって狂っていくようなうねる位相=〈奥〉をもっているのだ。
「曲がった棒」の「回転」が歪んだ次元を生み出していくように、「あとがき」もまた曲がった時間のうねりを生み出していく。
三次元に複雑にうねりながら生成していく曲線の、ある局面の断面図のみをとれば、ばらばらの点が平面上に散らばっているだけに見えてしまう…。異質の句を全て回顧展のように一巻に集約したのも、そうした虚と実、生と死、記憶と現前、言語と物質のはざまを縫って現象し続ける句作行為自体の統合性を感じ続けていたからにほかならない。
ばらばらの点しかみえないものが実はうねるような時間の〈ひとつ〉の流れであるかもしれないこと。点はどうじに線でありどうじに面でありどうじに空間であること。追いつかれようが、追い越されようが、それらの運動自体がうねりとなっているそのエネルギーそのものの時間の〈奥〉を意識すること。時間の〈襞(ひだ)〉にわけいること。
自分の単独性において引き受けると、世界と、そういう関係性からどんどん必要なものが出てきて、必要が終わったらなくなってという形で、微分曲線的に何かが発生して終わっていくと。そういう働きが俳句によって出来るといいなというふうに思います。
(関悦史『今、俳人は何を書こうとしているのか:新撰21竟宴シンポジウム全発言 』邑書林、2010年)
こうしている〈いま〉もどんどん〈一〉がふえていく。地球の総人口は現在七十三億四千七百二十二万千七百八十二人を突破したようだが当然この文章もすでに追い越されている。
(関悦史「あとがき」『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林、2011年 所収)
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