自由律俳句を読む 148
「荻原井泉水」を読む〔3〕
畠 働猫
今回は荻原井泉水の後年の句を鑑賞する。
これまで取り上げてきた句と比べて、句風に変化があることがわかる。
より自由なリズムを求めた結果であろうか、長律の句が多く見られる。
▽句集『長流』(昭和39)より【昭和21年~昭和35年】
ひでりばたけの火のようなトマトのみずみずしさよ 荻原井泉水
トマトの赤の鮮烈さが中心である。
戦後の暗さの中、赤く実るトマトが「光」であり、生命の「力」そのものに感じられたのだろう。
しかし「火のような」「みずみずしさ」と二つも説明を入れてしまっているのは語り過ぎのように思う。
水の中からもふる雪の水にふる 荻原井泉水
静かな水面に雪の降る様子が映っている景である。
幻想的な景の発見である。
しかし最後の「水にふる」は説明的過ぎるか。
黒い鵜の嘴(はし)に光る白い鮎が闇の中 荻原井泉水
鮎の艶めかしく光る体がこの句の中心の「光」である。
同時に、鵜の黒と鮎の白の対比も詠んでいる。
しかしその対比を確実に伝えたかったためか、「黒い」「白い」を言ってしまっているところが余分に思う。
れいろうと湯のわが一物(いちもつ)も、山の秋を見る 荻原井泉水
井泉水門下は一物句を詠まねばならないのだ。
一物は陽物であり、「光」と「力」そのものなのだろう。
きさまおれというきさまがおれのへちまをほめる 荻原井泉水
上の句からの連想で、「へちま」が一物のことのように見えて仕方がない。
仲良しで一緒に温泉かな。
ひらがな表記は童心への回帰を表しているのだろう。
走つてぬれてきて好い雨だという 荻原井泉水
良い句である。
この句での「光」は、会いに来てくれた人の笑顔であろう。
直接それを詠みこんではいないが、情景は容易に浮かぶ。
上に挙げた句群が説明過多であったのに対し、この句ではむしろ省略された部分に「光」がある。
月くもるとき石と石と寄り添う 荻原井泉水
「石」は墓石であろうか。
月が曇ることによってその輪郭があいまいになっていった様子だろう。
この句もまた「光」を直接詠んではいない。
しかしその不在を詠むことでかえってその存在を強調していると言える。
▽句集『大江』(昭和46)より【昭和36年~昭和45年】
蝶が蝶の影もつてとんでいるきよう 荻原井泉水
当たり前のことを言っているだけである。
しかし、『長流』から取り上げた句が説明過多であったのに対し、この句では余剰な語が逆に効果的である。
「蝶が蝶の影」とは、「あるがまま」であることを言うのであろう。
この境地は次の句にも見ることができる。
仏として石のほほえみ 荻原井泉水
石仏を前に詠んだ句であろう。
しかし、そこにあるのは石を石として見る現実的な目である。
仏として彫られた像も、彫った者の思いも、信仰もその眼を曇らせることはない。
石は石であり、石として微笑んでいる。
詩情を突き詰めたところに生じた現実主義的視点。
これが井泉水の辿り着いた一つの境地と言えるのではないだろうか。
▽句集『四海』(昭和51)より【昭和46年~昭和51年】
ほたる飛ぶ水は暗いほうへ流れる 荻原井泉水
「光」は言うまでもなく「ほたる」である。
しかし詠者の視線は「暗いほう」へ向いている。
「自然」と「人生」の光と力を追い求めながら、その対極に目が向き始めたのだろうか。
晩年の句である。
残る花はあろうかと見にいでて残る花のさかり 荻原井泉水
これも「残る花」の重複が効果的である。
「残る花のさかり」とは、「今・ここ」における美の発見であろう。
「残る花はあろうか」と、せめて散っていない花がないものかという期待を持ちながら外に出たのだ。しかし現実は期待とは無関係であった。「今・ここ」にある花は、「今・ここ」における美を湛えている。
これはまさに末期の眼ではないか。
対象を対象そのものとして見る現実主義的視点がさらに昇華し、対象の「今・ここ」こそがあるがままに美しいという境地である。
ここにおいて「光」も「力」も殊更に強調されるべきものではなくなり、それらは自然を自然のままに詠むことですでにしてそこに在るはずのものである。
したがって、この句における「残る花」は前と後で大きくその意味が異なるのだ。
末期の眼が開眼したそのときをとらえた句であると言える。
美し骨壺 牡丹化(かわ)られている 荻原井泉水
「絶句」となった句である。末期の眼には自分が収められるべき骨壺もこの上なく美しく見えたことだろう。
いずれその中に収まる身には、それは世界であり、宇宙そのものとも言える。
* * *
今回の句評にも表れているように、『長流』の頃の句について私はあまり評価できない。冗長で説明過多であるからだ。
前回までに挙げた井泉水の句には激しさがあった。
「わからないなら殺す」とでも言いたげな修羅の顔が見えていた。
それが説明過多の句になっていった背景には、受け手に対する不信感があるように思う。
受け手がわかるように、噛んで含めるように説明することで、句は切れ味を失ってしまっているのだ。鵜と鮎の句などはまさにそうである。
これは表現者には共通のジレンマと言っていいだろう。
「わかる」ように、「わかりやすく」することによって、表現の切れ味は鈍り、あるいは本質から遠退いてしまう。
しかしおそらくは、「AはAである」「AはAでしかない」という現実主義的な視点に立つことによって、井泉水はそのジレンマから脱したのだ。
「石仏」は石に仏を刻むことで、わかりやすくした信仰の道具であると言える。
しかし「石」を「石」のままに見ることで見えてくる「本質」がある。
それこそが「光」であり「力」であったのだ。
井泉水の句が古びないのは、そうした本質に至っているからであろう。
その後を生きる我々は、早くその境地に至り、そして越えてゆかなくてはならない。
次回は、「中塚一碧楼」を読む〔1〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
これまで取り上げてきた句と比べて、句風に変化があることがわかる。
より自由なリズムを求めた結果であろうか、長律の句が多く見られる。
▽句集『長流』(昭和39)より【昭和21年~昭和35年】
ひでりばたけの火のようなトマトのみずみずしさよ 荻原井泉水
トマトの赤の鮮烈さが中心である。
戦後の暗さの中、赤く実るトマトが「光」であり、生命の「力」そのものに感じられたのだろう。
しかし「火のような」「みずみずしさ」と二つも説明を入れてしまっているのは語り過ぎのように思う。
水の中からもふる雪の水にふる 荻原井泉水
静かな水面に雪の降る様子が映っている景である。
幻想的な景の発見である。
しかし最後の「水にふる」は説明的過ぎるか。
黒い鵜の嘴(はし)に光る白い鮎が闇の中 荻原井泉水
鮎の艶めかしく光る体がこの句の中心の「光」である。
同時に、鵜の黒と鮎の白の対比も詠んでいる。
しかしその対比を確実に伝えたかったためか、「黒い」「白い」を言ってしまっているところが余分に思う。
れいろうと湯のわが一物(いちもつ)も、山の秋を見る 荻原井泉水
井泉水門下は一物句を詠まねばならないのだ。
一物は陽物であり、「光」と「力」そのものなのだろう。
きさまおれというきさまがおれのへちまをほめる 荻原井泉水
上の句からの連想で、「へちま」が一物のことのように見えて仕方がない。
仲良しで一緒に温泉かな。
ひらがな表記は童心への回帰を表しているのだろう。
走つてぬれてきて好い雨だという 荻原井泉水
良い句である。
この句での「光」は、会いに来てくれた人の笑顔であろう。
直接それを詠みこんではいないが、情景は容易に浮かぶ。
上に挙げた句群が説明過多であったのに対し、この句ではむしろ省略された部分に「光」がある。
月くもるとき石と石と寄り添う 荻原井泉水
「石」は墓石であろうか。
月が曇ることによってその輪郭があいまいになっていった様子だろう。
この句もまた「光」を直接詠んではいない。
しかしその不在を詠むことでかえってその存在を強調していると言える。
▽句集『大江』(昭和46)より【昭和36年~昭和45年】
蝶が蝶の影もつてとんでいるきよう 荻原井泉水
当たり前のことを言っているだけである。
しかし、『長流』から取り上げた句が説明過多であったのに対し、この句では余剰な語が逆に効果的である。
「蝶が蝶の影」とは、「あるがまま」であることを言うのであろう。
この境地は次の句にも見ることができる。
仏として石のほほえみ 荻原井泉水
石仏を前に詠んだ句であろう。
しかし、そこにあるのは石を石として見る現実的な目である。
仏として彫られた像も、彫った者の思いも、信仰もその眼を曇らせることはない。
石は石であり、石として微笑んでいる。
詩情を突き詰めたところに生じた現実主義的視点。
これが井泉水の辿り着いた一つの境地と言えるのではないだろうか。
▽句集『四海』(昭和51)より【昭和46年~昭和51年】
ほたる飛ぶ水は暗いほうへ流れる 荻原井泉水
「光」は言うまでもなく「ほたる」である。
しかし詠者の視線は「暗いほう」へ向いている。
「自然」と「人生」の光と力を追い求めながら、その対極に目が向き始めたのだろうか。
晩年の句である。
残る花はあろうかと見にいでて残る花のさかり 荻原井泉水
これも「残る花」の重複が効果的である。
「残る花のさかり」とは、「今・ここ」における美の発見であろう。
「残る花はあろうか」と、せめて散っていない花がないものかという期待を持ちながら外に出たのだ。しかし現実は期待とは無関係であった。「今・ここ」にある花は、「今・ここ」における美を湛えている。
これはまさに末期の眼ではないか。
対象を対象そのものとして見る現実主義的視点がさらに昇華し、対象の「今・ここ」こそがあるがままに美しいという境地である。
ここにおいて「光」も「力」も殊更に強調されるべきものではなくなり、それらは自然を自然のままに詠むことですでにしてそこに在るはずのものである。
したがって、この句における「残る花」は前と後で大きくその意味が異なるのだ。
末期の眼が開眼したそのときをとらえた句であると言える。
美し骨壺 牡丹化(かわ)られている 荻原井泉水
「絶句」となった句である。末期の眼には自分が収められるべき骨壺もこの上なく美しく見えたことだろう。
いずれその中に収まる身には、それは世界であり、宇宙そのものとも言える。
* * *
今回の句評にも表れているように、『長流』の頃の句について私はあまり評価できない。冗長で説明過多であるからだ。
前回までに挙げた井泉水の句には激しさがあった。
「わからないなら殺す」とでも言いたげな修羅の顔が見えていた。
それが説明過多の句になっていった背景には、受け手に対する不信感があるように思う。
受け手がわかるように、噛んで含めるように説明することで、句は切れ味を失ってしまっているのだ。鵜と鮎の句などはまさにそうである。
これは表現者には共通のジレンマと言っていいだろう。
「わかる」ように、「わかりやすく」することによって、表現の切れ味は鈍り、あるいは本質から遠退いてしまう。
しかしおそらくは、「AはAである」「AはAでしかない」という現実主義的な視点に立つことによって、井泉水はそのジレンマから脱したのだ。
「石仏」は石に仏を刻むことで、わかりやすくした信仰の道具であると言える。
しかし「石」を「石」のままに見ることで見えてくる「本質」がある。
それこそが「光」であり「力」であったのだ。
井泉水の句が古びないのは、そうした本質に至っているからであろう。
その後を生きる我々は、早くその境地に至り、そして越えてゆかなくてはならない。
次回は、「中塚一碧楼」を読む〔1〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
0 comments:
コメントを投稿