風狂俳人・高橋鏡太郎
林楓
住処を定めず、伴侶を定めず、酒を好みアウトローのように生きた詩人は数いるが、高橋鏡太郎もその1人に数えられないことはない。どちらかといえば彼自身が退廃的な生活を好んだというより、太平洋戦争がそうさせた、と言えるだろう。
吉屋信子著『底の抜けた柄杓―憂愁の俳人たち―』(昭和39年)によると、鏡太郎が生まれたのは大正2年。彼はドイツの詩人・リルケに傾倒する青年だった。昭和15年には安住敦の薦めで俳誌「琥珀」に関わる。新聞記者として働いていたが、空襲から逃れるために妻と幼い子供を連れ疎開。帰京した後は定職につかず、収入の安定しない生活を送り、妻はホステスとして働くがそこで愛人を得て離縁。このあたりから鏡太郎の漂流生活が始まる。俳誌「春燈」に投句するも、久保田万太郎の怒りを買い脱退。とことん運に見放された男だったようで、肺結核にかかったりもしている。その入院中の様子を石川桂郎は著書『風狂列伝』(昭和49年)で語っている。(以下引用)
吉屋信子著『底の抜けた柄杓―憂愁の俳人たち―』(昭和39年)によると、鏡太郎が生まれたのは大正2年。彼はドイツの詩人・リルケに傾倒する青年だった。昭和15年には安住敦の薦めで俳誌「琥珀」に関わる。新聞記者として働いていたが、空襲から逃れるために妻と幼い子供を連れ疎開。帰京した後は定職につかず、収入の安定しない生活を送り、妻はホステスとして働くがそこで愛人を得て離縁。このあたりから鏡太郎の漂流生活が始まる。俳誌「春燈」に投句するも、久保田万太郎の怒りを買い脱退。とことん運に見放された男だったようで、肺結核にかかったりもしている。その入院中の様子を石川桂郎は著書『風狂列伝』(昭和49年)で語っている。(以下引用)
そっとベッドを降り、高橋鏡太郎と名札を貼った痰コップに指をかけると、それを持って忍び足に病室を出た。夜勤看護婦の目をどうごまかしたか、忍び足に安静度一の患者の病室に入る。さいわい目を覚ます気配はないと知って、枕頭台の痰コップを鷲掴みに、おそらく血痰、血線の走るその痰を自分の痰コップへ注ぎ込むことに成功した。(中略)動悸のおさまるまでジッとしていたあと、こみあげる吐き気をおさえ、一気に半分ほど痰を飲んだ。(後略)
他人の痰を飲むというおぞましい行為に及んでまでして病状を悪化させた。人生のどん底にいた鏡太郎には入院生活は天国のように快適だったのだろう。入院していない時は、俳人・高島茂がマスターである新宿の酒場、ボルボで毎晩のように焼酎を飲み、離婚と結婚を繰り返し、ガード下で拾った老婆と同居(?)を始めたらしい。そのような境遇にありながらも彼は俳句をやめなかった。
そんな彼は死に際も奇妙で、49歳のときに崖から転落死した。仲間に彼の死が伝えられた時にはすでに亡骸は病院から火葬場に送られていて、仲間内で東京中の火葬場を探し回って、ある無名の棺に鏡太郎は眠っていた。その日は友引だったため火葬が行われていなかった。この日が友引でなかったら、彼を鏡太郎として葬った人はいなかっただろう。
そんな彼は死に際も奇妙で、49歳のときに崖から転落死した。仲間に彼の死が伝えられた時にはすでに亡骸は病院から火葬場に送られていて、仲間内で東京中の火葬場を探し回って、ある無名の棺に鏡太郎は眠っていた。その日は友引だったため火葬が行われていなかった。この日が友引でなかったら、彼を鏡太郎として葬った人はいなかっただろう。
冬ざれやせきれいとても翳やどす 高橋鏡太郎
『空蟬抄』(昭和15年)より。最初の妻と結婚する前に編まれた句集。ひらがなが多いが「冬」「翳」は漢字表記なのが印象的だ。「とても翳やどす」は「とても」という口語が「翳やどす」と暗いフレーズにかかり、不思議な感覚を覚えさせ、彼の不安な心中と戦争の近づく不穏さをあらわしてのことだろうか…などと考えてしまう。
枯木さへ厨にあればうつくしく 同
『愛憐詩篇』(昭和22年「現代俳句五十人集」所収)より。詞書に「妻子を疎開させ、ひとり陋屋に在りて」。鏡太郎は先述したように最初の妻・みどりと別れた後何度か結婚しているが、彼の人生で最も愛したのはみどりだろう。実際、初期の作品には妻子を詠んだものが多い。
家妻はかなしきものか胡瓜揉み 同
寄れば妻月光こぼるる胸反らし
吾子すでに手におもたしやほととぎす
「枯木さへ」の句は、妻がよく働いていた厨ならばなんでも美しく見えるという、のろけにも感じられる。枯木という季語は彼らの未来の暗示か。
生別と死別といづれ冴えかへる 同
『市井抄』(『高橋鏡太郎の俳句』昭和44年所収)より。すでに妻は詠まれることなく、生と死を見つめた作風が多いことから漂流人生を歩み始めた頃だろうかと想像できる。「生別」と「死別」の差は非常に大きい。しかし、鏡太郎にとって別れてしまえばそれっきり、生きているか死んでいるかは意味をなさないのだ。社会にも彼の人生にも大きな変化があったであろうことが感じられる句はこの句だけではない。
太宰治逝きてより三鷹の遅つつぢ 同
『市井抄』(『高橋鏡太郎の俳句』昭和44年所収)より。昭和23年6月13日、文豪・太宰治は愛人と入水自殺を図った。鏡太郎が俳句雑誌に寄稿し、友人・高島茂と交わり始めた頃である。鏡太郎とは4歳違いで、年の近い文筆家の死が彼に与えた影響も大きいだろう。三鷹は太宰治ゆかりの地。死んだ太宰のいた地に根をはる、艶やかな色の盛りを終えかけた遅つつじ……。生の実感の乏しい空間に彼はいたのだ。
生と死をあざなふごとき冬に入る 同
『市井抄』(『高橋鏡太郎の俳句』昭和44年所収)より。「ごとき」と連体形で「冬」にかかるのがおもしろい。生と死という大きすぎてつかみどころがない、しかし人間の営みに深く関わる2つの概念を取り合わせた。混ざり合いはしないが、生と死が常に隣合う季節になったことは、冬に入ってからでなにと自覚できない。
背信と反逆いづれか汗して酒くまな 同
『市井抄』(『高橋鏡太郎の俳句』昭和44年所収)より。切迫した空気の漂う句だ。大辞林によると、背信は「信頼や約束を裏切ること。信義にそむくこと。」反逆は「権威・権力などに逆らうこと。」つまり私的に裏切るか、公的に裏切るか、といったところか。上5中7だけ読むと、革命のような句にも見えるが最後に酒を持ってくるとは笑ってしまった。ともすれば懐疑心をもって酒を酌み交わしているのかもしれない。
神の手にゆだねんこの身夏また秋 同
『孤心抄』(『高橋鏡太郎の俳句』昭和44年所収)より。「夏また秋」とは大胆に詠んだものだ。彼が特定の宗教を信じていたか、無神論者であったかはわからない。この句が詠まれた時期も不明だが、彼の最晩年かと思ってしまう。鏡太郎が亡くなったのは6月。病死や老衰ではなく転落死だが、彼自身自分の死期が近いことを薄々感じていたような句だ。だが自分の運命を神にゆだねてしまい、死期も夏だか秋だかはっきりしない。あっけからんとした作風により、自分の運命や死を重く受けとめずになるがままに生きた彼の生きざまを感じることが出来る一句である。
『孤心抄』(『高橋鏡太郎の俳句』昭和44年所収)より。「夏また秋」とは大胆に詠んだものだ。彼が特定の宗教を信じていたか、無神論者であったかはわからない。この句が詠まれた時期も不明だが、彼の最晩年かと思ってしまう。鏡太郎が亡くなったのは6月。病死や老衰ではなく転落死だが、彼自身自分の死期が近いことを薄々感じていたような句だ。だが自分の運命を神にゆだねてしまい、死期も夏だか秋だかはっきりしない。あっけからんとした作風により、自分の運命や死を重く受けとめずになるがままに生きた彼の生きざまを感じることが出来る一句である。
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