2016-11-13

あとがきの冒険 第14回 忘れた・忘れる・忘れるだろう 小津夜景『フラワーズ・カンフー』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第14回
忘れた・忘れる・忘れるだろう
小津夜景フラワーズ・カンフー』のあとがき

柳本々々


福田若之さんが小津夜景さんの俳句について書いた「『THEATRUM MUNDI』再読」の冒頭でこんなふうに述べている。
これは記憶術的な書物である。……この劇場において、世界は、記憶にないほど古いもの、あるいは、何かまったく新しいものとして、読み返されるのである。(福田若之「『THEATRUM MUNDI』再読」『オルガン』5号・2016春)

わたしは小津夜景さんの俳句を語るときに福田若之さんが「記憶」から語り始めたことをとても興味深く思った(夜景さんの俳句の基礎的な問題がこの福田さんのロラン・バルトのような断章スタイルの文章には凝縮されて展開されているように思うのでぜひ『オルガン』を読んでみてほしい)。しかも、だ。福田さんは「記憶にないほど古いもの、あるいは、何かまったく新しいもの」と述べているが、つまり、「記憶」という言葉をめぐるものでありながら、それは〈反記憶〉的ななにかなのである。記憶にないほど「古」くて、記憶が追いつかないくらいに「新しい」もの。

「書物」(書かれたもの)は「記憶」として痕跡化されるものであるはずなのに、夜景さんの俳句は「記憶」のありかたを「記憶術的」に想起させつつも、そのシステムにあらがうらしいのだ。それは福田さんの「読み返される」という言葉にもあらわれている。夜景さんの俳句は「再読」がキーになると福田さんは語った。

では、なぜ、「読み返される」のか。

《記憶できない》からだ。小津夜景の俳句は、記憶できない。

ここで夜景さんの新刊の句集『フラワーズ・カンフー』の「あとがき」をみてみよう。ここにも「記憶」が中心的なトピックとしてあらわれてくる。福田さんがマッピングしたような「記憶」と〈反記憶〉のありかたがもう一度〈思い出される〉かのように夜景さんの「土地」=〈地図〉のなかで「フィールドワーク」され、「海」として空間=重層化され、〈再構成〉されていく。引用しよう。
文字に触れるときの私は、思い出に耽りつついまだ知らない土地を旅している。それは散乱する〈記憶〉の中から〈非-記憶〉ばかりをよりすぐる、あたかも後衛と前衛とを同時に試みるかのごとき奇妙なフィールドワークだ。二年半にわたるこの行為のさなかにおいて、私はちょうど海を眺めるときと同じように自分が〈記憶〉と〈非-記憶〉との汀、即ち〈現在〉に対して開け放たれてあるのをずっと感じつづけていた。
〈記憶〉だけでなく、〈非-記憶〉も重ねて語られている。〈非-記憶〉とは思い出すことのできないなにかだ。しかも夜景さんの「あとがき」によれば、思い出すことのできないものは、思い出すことのできるもののなかに、「散乱する〈記憶〉の中」にあるという。

つまり、夜景さんにとって「文字に触れる」ということ、〈書く〉ということ、〈俳句を書く〉ということは、思い出のなかに忘れたものを探しにゆく行為なのだ。

思い出のなかに忘れたものを取り出しにゆくこと。これはなにかに似てないだろうか。そう、福田さんの言っていた「読み返す」という行為だ。これはまさしく《再読》そのものじゃないか。

福田さんは夜景さんの俳句は〈再読される〉ものとしてあると指摘したが、《そもそも》夜景さんにとっての〈書く〉という行為が〈再読〉そのものなのではないか。みずからの記憶の「中」で非-記憶を「よりすぐる」作業。それはまさに、本を「再読」する人間の行為ではないか。

再読とは、すでに知ったもの(記憶)のなかに、知らなかったもの(非-記憶)を〈発見〉する行為である。その〈発見〉を「対話」と呼んでもいい。わたしには大好きな本があります。この本です。もう一度わたしの大好きなこの本を読んだら、わたしはこの本のことをこんなに知っていたはずなのに、この本からこんなに知らなかったものが出てきましたの対話。再読とは、そういうものだ。
おそらく〈非-記憶〉のかけらは〈記憶〉との対話を抜きにしては発見することができない。
この夜景さんの「あとがき」を福田さんの言葉を借りて「僕たち」の〈ふだん〉のことばに置換すればこんなふうに言い換えられるだろう。
僕たちは忘れた。僕たちは忘れる。僕たちは忘れるだろう。そして、読み返す。(福田若之、前掲)
〈読む〉ということが〈忘れる〉ことだなんて、なんという逆説なんだろう。わたしたちは〈忘れる〉ために〈読む〉のか。それともわたし自身がなにか決定的なものをもはや《忘れて》しまっているのか。《忘れた》まま、書き・読み・生き・語ってきたのか。

忘却は星いつぱいの料理店  小津夜景

別のかたちだけど生きてゐますから  〃

語りそこなつたひとつの手をにぎる  〃

しかし、夜景さんの句は〈忘却〉と〈生きること〉と〈語りそこなう〉ことの対話を要請している。忘れても生きることを、生きても語りそこなうことを、語りそこなっても忘却として《想起》することを。メメント・モリ(思い出せ)。

長き夜の memento mori の m の襞  小津夜景

たとえばこの句は「川柳とその狂度」(http://hw02.blogspot.jp/2015/10/42.html)にあるように拙句「真夜中の Moominmamma の m の数」が《想起》されたものだ。想起は、忘れることに、生きることに、語ることに、書くことに、ふかく、関わっている。

だから--。《想起》とは、《再読》のことであり、《俳句》のことである。

俳句とは、想起(おなじだけ)の場所であり、遭遇(逢ふ)の場所なのであった。

もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し  小津夜景

(小津夜景「あとがき」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年 所収)

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