自由律俳句を読む 152
「中塚一碧楼」を読む〔4〕
畠 働猫
気がつけば11月ももう終わろうとしている。
今回を含めて四回にわたって中塚一碧楼の句を鑑賞してきた。
一碧楼は、1946年(昭和21年)の大晦日に亡くなっている。59歳であった。
今回はその絶句となった二句までを見ていきたい。
▽句集『若林』(昭和12年)より【昭和11年~12年】
魚にくるくるのまなこがあり冬の日ひとりの人に買はれた 中塚一碧楼同
魚の眼に引き込まれるようにして、主体が魚に移っていく。自らがその魚と同化し、買われてゆく様子を体験しているようだ。岡山県玉島に生まれた一碧楼にとって、海はその生涯を通して生活の一部であったのだと思う。
女の倦怠がちらちら雪をふらすそのやうにおもふ 同
先に挙げた魚の句にも共通する詩情が、この時期の一碧楼の特徴ではないか。
自分の内面を直接に吐露するこの句は、一行詩とも言うべきもので、「俳句」というものからはかなり逸脱したものと言えるのではないだろうか。
わたしのあばらへ蔓草がのびてくる 同
この句もまた詩である。「あばら」を「あばら家」と解釈することもできようが、この「あばら」はやはり「あばら骨」のことであろう。あばらの浮き出た痩せた体で自由を奪われている、あるいは自由に動くことができない。そうした状況を比喩的に「蔓草」で表現したものと思う。今見れば月並みな表現のよううに思うが、当時は新鮮だったのではないだろうか。
「碧梧桐先生を亡ふ 五句」
先生死に木の白い椿八月九日 同
わが顔へねこやなぎ夥しきぎんのねこ 同
早春か戸塚に牛込に先生が根岸にもゐない 同
なんだ菜種の早咲きか買つて来たんか雨の日 同
七日七夜も雨ふり通せ枯草水につかりもせ 同
「自選俳句」によって一度は決別した碧梧桐との関係も、その後和解し、ともに「海紅」を創刊するに至った。以降、碧梧桐が主宰を辞するまで、一碧楼は編集を担った。碧梧桐が去ったのちも二人の交流に(少なくとも精神的な面では)変わりがなかったことが偲ばれる句群である。
碧梧桐の死は昭和12年2月1日。早春の頃であった。
その死を悼み詠まれた句群は、その日以前と以後との時間の連続に戸惑う混乱や、ふとした瞬間に現実に引き戻される喪失の嘆きに満ちて痛々しい。
「戸塚」に「牛込」に「根岸」にもその姿を探してしまう心情は、喪った恋人の姿を追い求めてしまう山崎まさよしの「one
more time, one more chance」とも共通のものであり、一碧楼の碧梧桐への思いは、師への尊敬を超えた思慕の念に近いものであったことを思わせる。二人の不世出の俳人はともに愛憎を超え、認め合い補い合う関係であったのだろう。
▽句集『宵宮』(昭和14年)より【昭和13年~14年】
基礎工事といふせめんと袋幾袋でも破いて冬の日 同
労働句である。
労働者に向ける視線は未だ変わらず一碧楼にあった。この句では、その繰り返される作業にどこか面白みのようなものを感じているように思う。働く者たちの白い息や声が聞こえてきそうな、優れた写生である。
冬の日小皿五まい一枚は疵あるを愛(かな)しき藍の小皿 同
こちらも「冬の日」である。倹しい暮らしの中で、小皿の疵さえ愛おしく思える幸福をかみしめているかのようだ。
水鳥水に浮いてゐ夫人はこれにはかなはないと思つてもゐない 同
優雅に見える水鳥も水面下では必死に水を掻いている、みたいなことであろうか。それでもこの夫人の傲岸さを愛おしく思っているように見える。
われら春浅い夜にまぎれる銀座裏通銀座表通 同
春の夜遊びであろうか。浮き立つような心情が窺われる。当時一碧楼は50歳を超えていたことと思う。なんとも元気な初老である。
竹の秋のせいか大きなまなこしてここへやつて来た男 同
目を見開いてきたのか。理由は竹の秋のせいではなかったかと思うが。
単衣きて樹がはつきりしてはつきり苦境 同
「苦境」は生活が逼迫してきた状況であろうか。それとも戦時における思想統制を言うものであろうか。
▽句集『石榴』(昭和17年)より【昭和15年~17年】
石など朝のものみなあをし石蕗の花さく 同
「小澤碧童追悼」と前書きがある。
碧童は碧梧桐との縁で「海紅」に参加した俳人である。同じ碧門と言ってよいか。次々に世を去ってゆく友を見送りながら、自らの死についても改めて意識するのだろう。この句に表れている情景は、石にも美しさを見出す、末期の眼に映るものである。
▽句集『上馬』(昭和19年)より【昭和17年~19年】
食べるに芋ありこの座からの竹林 同
物資の不足してゆく中も食べ物も見る物もあるがままにして足りているという境地を詠んだものであろうか。
ぴいてふ鳥なくぴいてふ青い山が迫る 同
昭和8年の句集『芝生』で見られた
「とつとう鳥とつとうなく青くて低いやま青くて高いやま」
のような、繰り返しのリズムがここでも効果的に用いられている。
▽句集『くちなし』(昭和21年)より【昭和19年~21年】
生死もとよりなきごとし辛夷咲きたり 同
こぶしの咲く早春は、師である碧梧桐を亡くした季節である。
敗戦から戦後にかけての時代、また、早春という季節が、死をより身近なものと感じさせたことだろう。最晩年にあたるこの時期の句には「死」を詠んだものが多く著されている。以下に挙げてみる。
ここに死ぬる雪を掻いてゐる 同
わがからだを感じつつ海苔一まいをあぶり 同
母に逢はず母死にしより霜の幾朝 同
われを愧ぢてゐる枯草など焚火してゐる 同
ここで言う「愧ぢ」とは何であろうか。戦中戦後を生き残ってしまった自分を思うのか。末期の眼で見る焚火に、様々な句友や師の面影が浮かんだのかもしれない。
▽句集『冬海』(昭和21年)より【昭和21年2月~12月】
母よりたまはりしものの如し青い莢豌豆をたべる 同
これも食卓のさやえんどうを末期の眼で見たものか。亡くした母からの賜りもののように感じ、感謝の念を抱きながらいただく。
今や食べ物にかぎらず、自らの周囲のあらゆるものが僥倖として在るという境地なのであろう。
以下「友たち相次いで逝く 二句」
つくつくほふし鳴きやまず樹木はみな立てり 同
拝むこころ裸にてここに坐りたり 同
ここで見える死への向き合い方は、すでに嘆きや悲しみではなく、ただただ在るものとして受け入れる姿勢である。
その59年の生涯を通して、一碧楼は多くの死に向き合ってきた。そしてその「死」をいかにして表現しようかと苦心してきたはずである。しかしここに至り、その苦心は「裸」という境地に至る。
死を前に私たちはただ向き合うのみであり、何を飾ることもなく裸である。
ただ「在るもの」に向き合う。
これまで見て来た句にも表れていた一碧楼の姿勢である。
女と向き合い、海と向き合い、師と向き合い、無産階級と向き合い、時代と向き合ってきた。
そしてここで「死」さえもただ向き合う対象とするに至るのである。
以下「絶句二句」
病めば蒲団のそと冬海の青きを覚え 同
魴鮄一ぴきの顔と向きあひてまとも 同
絶句においても、向き合う姿勢は貫かれた。その対象は海であり、一匹の魚であった。そしてともに末期の眼で見る世界の美しさが詠まれている。
これらの句は、12月15日に自宅で催された海紅社句会において詠まれた。
11月下旬に胃腸を病み、療養していた一碧楼はこの翌々日に吐血し、31日の朝、その生涯を閉じた。
絶句としては、前の句の方がそれらしさがある。ここに死に向かう悲壮感を読み取ることも可能だろうからだ。
しかし「冬海」を詠みながら、厳しさではなく青さに言及していることに注目したい。おそらくは現実の海を前に、生涯を通して向き合ってきたあらゆる海、故郷の海、そうした記憶の中の海が布団の外に広がっている、そんな心象風景を表現したものと思う。末期の眼による表現の一つの到達点と言えるだろう。
だが私は後の句の方がどうにも好きである。これこそ人間一碧楼の結実であるように思うからだ。
魴鮄(ほうぼう)。北海道に住む自分にはあまり馴染みのない魚である。美味であるらしいが、どうにもそのユーモラスな容貌が特徴的だ。
そのとぼけた顔と向き合ってまともな顔でいる自分。そうした姿、そうした人間であったということを、自ら認め、呑み込んだ瞬間であったのではないか。
碧梧桐に傾倒し、反発し、自由を追い求めながら戦中戦後を生き抜いてきた。
その人生を完全に肯定できた瞬間だったのではないかと思うのである。
一瞬真顔で向き合ってその後、ひとしきり笑ったのではないか。
そんな情景が思い描けるほどに、この句は私の中の一碧楼のイメージと完全に一致した。
* * *
一碧楼について私は、死を見つめ、海を見つめ、人を見つめた詩人であったのだと思う。その詩人が、「俳句」という装置に出会い、それを通して表現を模索していった過程がその生涯であったのだろう。
さて、何度か言及してきた「添削」についてである。
一碧楼が「自選俳句」を刊行した理由が、碧梧桐による添削と選への抵抗と創作の自主制を守ろうとしたためであることはすでに述べた。
例えば、「日本俳句」に掲載された一碧楼の句に次のものがある。
「誰のことを淫らに生くと柿主が」
この句には、碧梧桐の添削が入っており、もとは次のような句であったらしい。
「恬然と淫らに生きて柿甘し」
自ら添削した句について碧梧桐は「日本俳句」誌上において称賛しているが、正直に言ってちょっとぴんと来ない。
おそらく「淫ら」の解釈が、もとの一碧楼と碧梧桐とで違うように思う。
もとの句での一碧楼の「淫ら」とは、キリスト教の信仰に関わる意味であったのではないか。信仰において自己を律することなく柿の甘さに身を委ねる奔放さ、背徳感を詠んだのではなかろうか。しかし碧梧桐の添削により、「淫ら」は文字通り性的なもの、あるいは性質という意味に貶められてしまっている。
したがって自分には、添削前の句の方が優れたものに見える。
もちろんこれは例外的なものであり、添削によって句はより優れた形になることが多いのだろう。放哉の「せきをしてもひとり」が井泉水の添削によって生まれた名句であるように。
しかしそれでも私は「添削」というものに違和感を覚えるのである。
私が鑑賞者である場合には、添削によってより高次な作品が生まれることには賛成である。
しかし表現者として、修羅としては、自らの根幹に関わる問題としてこれに抗いたくなる。
添削された句はもはやもとの作者の句ではない。
添削を受け入れた瞬間に、その作品は死ぬのである。
どんなに美しく整ったとしても、それは作者の目指した形ではない。
高みを目指して血を吐きながら登っていく修羅を、上空からつかみあげて別の山の頂に置くようなものである。
富士の頂を目指して登っていた者を、ヘリコプターでエベレストの山頂に連れて行く。「目標より高い山に登れた。うれしいな」と思う者には、もともと修羅の資質がないのだ。
そのような行為に、創作者としての修羅が心にある者は怒りを覚えてしかるべきだ。
添削とは荒々しい神に対する調伏であり、天然自然の山河を切り開きコンクリートで固める行為である。
また、ただ一つの美の正解が自身の中にあるという思い上がった行為である。
添削は作者の自主性を否定するものであり、それによってできた句は、もはや添削者の句だ。
絵画におけるデッサン力を高めるように、対象をよりよく表現する優れた技術・技法を伝えるための添削は、習作としては有効である。しかしそれによってできたものはもう創作者の表現しようとした「作品」ではない。
「作品」を「作品」足らしめる「精神」は、自分の内奥以外のどこにも存在し得ないからだ。それは与えられるものではない。そして自分自身で切り出し、磨き上げる以外にないものだ。
ただし両者の関係が対等であった場合にはこの限りではない。故事における賈島と韓愈のごとく馬を並べて推敲しあえるのであれば、その句は創作者の意を生かしたままより高次へ導かれることになるだろう。
したがって、修羅たる表現者に必要なものは、添削ではなく推敲である。
師ではなく友である。
無論、慣れ合うだけの友ではなく、時に食み合い血を流し合う峻厳たる関係の友である。
私はそう思う。
次回は、「橋本夢道」を読む〔1〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
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