【週俳10月11月の俳句を読む】
指一本だけが
山田耕司
見回して放屁一発秋の山 加藤静夫
そもそも聖なるものを俗なるところへと引きずり込むのが俳諧の腕の見せどころだったのだが、季語などはほっておくと軽々に茶化すこともはばかられる聖なるものとして扱われることもあり、なかなか気が抜けない。そうした「ありがたい方向へのうわすべり」のようなものは、形式が因習化したりすることで促進されるようで、歳時記を金科玉条とするノリで見れば、「秋の暮」なんて、伏し拝むような気持ちで深読みする人も少なくないのではないか。あえてそんな「うわすべり」を逆手に取ることもまた、俳句の面白みであるともいえるのだが。
「秋の山」という聖に対して、いかにも「放屁」が俗として配置されていると読むフシもあるだろうが、むしろ「見回して」のほうに俗があるという読み方の方が好みである。「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな...」とキメるのは(あちらは桜だけど)、風景を見回してのことだ。石川五右衛門は南禅寺の楼門の上に一人で陣取っているわけだし、そもそもこの傑物、人の目なんて気にするような「小せえ」男のはずがない。一方、この句の〈見回して〉は、〈あたりの人の目をうかがいながら〉という人の営みの俗が示されているのだろうし、それでこそ俳句らしい顔つきが句に漂い始める。
まあ、いろいろうがった理屈を述べてみたところで、「放屁」は「放屁」で、これが句の器を小さく限定してしまっていることには違いないのだが。
塔といふ涼しきものや原爆以後 樫本由貴
〈原爆以後〉は、時間区分を説明する情報として提示されているわけであるまい。そこには、現実の被爆地や被爆者という客体ではなく、むしろ原爆投下以降の人類の思考にもたらされたざわめきや歪みのようなものが託されているのであろう。であるからこそ、この「塔」にもまた、静寂や秩序の喩としての性質がほどこされることになる。およそこのような認識は、俳句を社会的な批評性を託すメディアとして扱うことにもなりかねない。読者の方が勝手に都合の良い意味をくみ出してしまうのである(いうまでもなくその読者の一人として、句の作者も含まれてしまうことも)。この句における「涼しきもの」が、原爆の炎の対極としての意を託されているのだとしたら、まさしく、句は情報に解体されてしまうことだろう。しかし、「や」という俳句形式ならではの措辞を梃子の支点として、テーマが「涼し」という季語に注がれているようでもあり、そのことによって、この季語に新しい側面をもたらそうという意欲のようなものが句の眼目になっているとも読める。思うに、作者は、このような修辞の試行錯誤を自覚的に行う資質にあり、句を意味の集合体である情報の位相からむしろ引き剥がそうという意欲を持つ人なのではないかと、掲出されている他の句なども拝読しながら想像した。
切実な嘘なら許す柿たわわ 野名紅里
「たわわ」ということばは、それこそ、たいしたこだわりもなく使用され受け取られるものではあろうが、しみじみみるとそこはかとなく奇妙な気配を備えている。まあ、そう捉えることで「切実な嘘なら許す」という考え方に対する批評という立ち位置を「柿たわわ」に与えてみることにした。「切実な嘘」の「切実」とは何のどのような状況を指すのだかわからないけれど、とはいうものの「切実な嘘なら許す」には、「だから写実にしとけって言ったじゃん」という本道へと俳人を揺り戻そうとする契機の匂いがする。もはや慣用句のような趣において、人を特定の方向へと誘導してしまうのだ。それが〈「たわわ」の慣用性と、どっこいどっこいなんじゃないの〉というのが、それなりな批評性になりうるというヨミだ。しかし、このフレーズを、作者が本気でありがたいものだと思っている可能性もあり、そうなると、「柿たわわ」は、そのメソッドによってもたらされる豊穣のようなものを暗示しているようであり、ちょっと冴えない。
いわし雲微熱の指の長さかな 福井拓也
指一本だけが微熱を発しているのではないだろう。発熱することで意識の上に顕在化した身体を、さらに、部分として即物的にとらえなおそうとしての「微熱の指の長さ」と読んだ。「指」が最適なのかはあやぶむむきもあるだろうが、仮に「鼻の高さ」などでは慣用的な意味合いが余計な仕事をしてしまうだろうし、性器などを持ち出したら、句としての面白みがベタベタのネタサイドに落ちてしまう可能性があるわけだし、こういう斡旋はなかなか難しい。普段は機能と不可分に捉えられる「指」を「長さ」という評価において即物化する、その眼差しにおいて見つめ直す「いわし雲」。気象現象という物理的機能でもなく、抒情の拠り所という物語る上での機能でもなく、むしろ、何かの役に立ちそうな側面を排除した上で「いわし雲」を扱っているわけだが、そうした言葉のさばき方に、俳句への姿勢が豊かに見えているように思えた。
かりがねや展望台の窓の罅 斉藤志歩
「かりがね」は、いうまでもなく雁を指すのだが、それがどのような状態の雁を想起させるかは、言葉の内実として規定されているわけではない。であるからこそ、どういう側面を導き出すかが、作品としての面白みにつながる。展望台の窓というからにはある程度の高さにある窓であり、そう簡単に開閉できるものではないだろう。それにヒビがある。ここから、「たまにはぶつかってくることがあるんですよね、雁が。こないだも激突しちゃって、こんなところに、ほら、ヒビが」というようなヨミが広がるとしたら、句は一気に収縮し、情報の連なりとなってしまうことだろう。それでは、せっかく「や」で膨らませた甲斐がない。ある程度の高さの窓、人の営みにまつわるものはおおむねその向こうにはなく、ただ空が広がるばかり。ヒビは、物質の破損というよりは、やや抽象的にさえ感じる平面の上での図形として認識される。一群が飛ぶV字の編隊などを想起すれば、「かりがね」との詩的な回路は開通するだろう。ま、これは、かなり恣意的なヨミではあるが。格助詞連体修飾の「の」がふたつでは、表現に揺らぎが乏しく、ちょっともったいない、とも思った。
酔つてゐて惑星に似た梨を買ふ 平井湊
「酔つてゐ」ることが、ふと「梨を買ふ」行為につながったのか、梨が「惑星に似た」感覚を持つに至ったのか、その辺は定かではない。なんといっても気に入ったのは、この句を擁しつつ、一群の作品のタイトルを「梨は惑星」とまとめたところ。
ものごとの因果関係の条理からのふらりとした離れ方が面白いな、と、「台風一過両耳をよく洗ふ」を読んで思った次第。
2016-12-11
【週俳10月11月の俳句を読む】指一本だけが 山田耕司
第497号 学生特集号
第498号 学生特集号
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿