2017-01-01

俳句雑誌管見 飯田龍太の竹箒 堀下翔

俳句雑誌管見
飯田龍太の竹箒

堀下翔
初出:「里」2015.2(転載に当って加筆修正)

昨年の一一月、俳句仲間とともに山梨に行った。一泊二日の吟行合宿である。山梨といえば山盧がある。ふだんから開放されているところではないが、ご主人の飯田秀實さんのご厚意で案内していただけることになった。整理こそされているが蛇笏・龍太ゆかりの品々が今も残されている。

外へ出たところに竹箒が置いてある。秀實さんはそれを指して言う。「龍太が自分で編んだんです。これは八十代を過ぎて作ったものだから少し出来が悪い。昔は職人たちが欲しがるほどいいものを作っていました」。それからしばらくして、自由行動の時間になった。ふたたび箒を眺めていたら、そこへ同行の小野あらたがやってきて言った。「堀下君。ここに〈飯田龍太の竹箒〉というフレーズがあります。句会に出す句が足りなかったらこれに季語をつけて出してください」。この人はいつも悪い冗談を言う。

〈飯田龍太の竹箒〉にはきっとどんな季語だってついてしまうだろう。

秋晴や飯田龍太の竹箒
銀杏散る飯田龍太の竹箒

季節を変えてもいい。

涼しさや飯田龍太の竹箒

うん、そんなに悪くないかもしれない。でも、ご覧の通り、季語が動く。こんな風にいくつか並べるまでもなく、〈秋晴や飯田龍太の竹箒〉の一句を見るだけで、ああいかにも季語が動くな、というのは感ぜられる気もする。

季語が動く。主語が季語だからかは分からないけれど、その原因が季語ばかりにあると考えている人がたまにいる。これは季語が動く、だから季語を変えたほうがいいよ、と。違うんじゃないか。どんな季語であっても「飯田龍太の竹箒」についてしまうことの方が原因だ。もちろん季語のほうに原因があることもあるが、何でもつくフレーズというものがあるのだ。

あるいは、厳密に言うと、よほどいい句か、さもなくばよほど理屈っぽい句でないかぎり、季語が動かない句というのは幻想に近い。あまりに季語がぐらぐらな句でなくとも、最適解は複数ある。念のため言っておくが、それらはもちろん同じ句ではない。つまり、どの季語を取り合わせるかという点が一句のオリジナリティとなる。

書いていてずいぶんと当たり前のことを言っている気がしてきた。たぶん、ごく当たり前のことなのだろう。そんなことがなんとはなしに気になるのは、その季語が作者によって選ばれたということのかけがえのなさを思ったからである。

 挟まれてうつる写真や菊日和/大川ゆかり「沖」二〇一五年一月号

この句を持ってきたのには、あるいは、写真ということばへの同情がある。それは、失われるものを、失ったあとになって、どうにか部分的に取り戻す手段だ。

うつった、ではない。いまうつっているのでもよいし、現像されたものを見ているでもよい。写真自体が喪失を取り込んだ装置だから、かりにいまうつっているのであれ、写真となるだろうこの瞬間は、この瞬間にして、失われている。「挟まれてうつる写真や」と書きながら作者はそのさみしさを感じている。

菊日和、と書く。菊日和が選ばれる。われわれのもとにいま届いたこの句は、菊日和でしかありえないわけではない、という感じはする。がしかし、菊日和と作者は書いた。菊日和という季語からもたらされる豊かなイメージに言葉を尽くすことは誰にでもできるのでここではしない。

菊日和、と書く。ここには、どの言葉を選んでもいい、という自由がある。何かを書くことの自由のもとに何かが書かれている。一つでしかありえないわけではない、ということを保証するこの自由はひどくスリリングだ。自由に責任はつきもの、という優等生的言説がリアルに差し迫る。「挟まれてうつる写真や」と書きながら作者が感じたさびしさとの接点として「菊日和」は見出されている。そこには、なぜこの季語なのかという理屈以前の肌感覚がある。

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