評論で探る新しい俳句のかたち〔7〕
「前衛俳句」以降の俳句に見る構造の不連続性について
藤田哲史
「前衛俳句」の登場、それは、それまでの俳句の進化形なのではなく、全く別箇の詩の登場だったとも言える。
たとえば、「造型俳句六章」では、近代俳句との違いとして「暗喩」を特に強調して方法論が語られている。けれども、「前衛俳句」の新しさを一般的な暗喩という言葉で捉えきれているか、というと、私は不十分のように思う。
金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎
反例として一つ作品を挙げれば、ここにある川端茅舎の俳句も、暗喩を用いた俳句の一つだろう。「金剛」は金剛石=ダイアモンドのことで、助詞の「の」一語でいわゆる「のような」を省略して、直喩でない比喩=暗喩と見ることができる。
けれども、「前衛俳句」の括弧書きの暗喩=「暗喩」を駆使した俳句というのは、このような暗喩とは全く違う。
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子
この「前衛俳句」作品に対して、私は、「写生」という近代俳句以降の文脈などを念頭に、ある時間・ある場所で見た事物を言葉に置き換えた結果として捉えることができない、という言葉で一旦捉えてみた。
けれども、それでも何か言い足りていない。
「写生」があくまで方法論だと割り切って作品に向き合ったとき、ほんとうに眼前のものを読んでいるかどうかは実際のところさほど重要でないからだ。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
遠山に日の当りたる枯野かな 高濱虚子
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
これらの作品のように、作者の意図や経験が収束して、ある一つの簡潔さを得たとき、果たしてそれが、実際に体験したことがらなのか、はたまた心象なのか判然としなくなる場合がある。単純化の妙だ。
一般的な暗喩と違って、金子兜太の「華麗な墓原女陰あらわに村眠り」や赤尾兜子の「広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み」などの作品における「暗喩」は、それが比喩かどうか、という点すら曖昧なところに大きな特徴がある。
言い換えれば、「前衛俳句」における「暗喩」は、比喩以外の言葉のはたらき(象徴、寓意など)を仄めかしつつ、どれに重点が置かれているか、を読み手に判断させない。
このような読みを誘っているのが、「前衛俳句」にある構造の不連続性だ。
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み 赤尾兜子
この赤尾兜子の作品も、「広場に裂けた木」と「塩のまわりに塩軋み」の間に不連続面があって、読み手は、前段と後段の関係性について全ての可能性を意識しながら読み解くことになる。ここでは、「取り合わせ」や「切れ」という言葉をあえて避けることにする(ちょっと仰々しいけれど、作品本位で表現を語る言葉として他に適当なものが思いつかない)。
「取り合わせ」という言葉はあくまで名詞と名詞の配合を指すことが多い。一般に俳句は「取り合わせ」の俳句とそうでない俳句(「一物仕立て」「一句一章」という場合もある)の2つに大別して語られがちだが、季語と季語以外の名詞との配合である「取り合わせ」がそのまま構造として不連続かどうかというと、そうでもない。
青天や白き五弁の梨の花 原 石鼎
近代俳句の秀作、原石鼎の作品のように、季語である「梨の花」と「青天」が「取り合わ」されていても、格別に構造の不連続性を見出すことがむずかしい作品もある
秋の蛇ネクタイピンは珠を嵌め 波多野爽波
だからこそ、私は、波多野爽波の作品を見て感じる。この爽波の作品の構造は、ひじょうに「前衛俳句」的だと。
読み手としての私は、「秋の蛇」と「ネクタイピンは珠を嵌め」の2つの部分の関係性について戸惑い、そして、いくつかの可能性を頭の中に巡らせ、この作品の良さを見つけ出していくことになる。
作者である爽波がどのような方法論によったかどうかともかく、結果としてのこの作品には、不連続性があると言える。
「前衛俳句」と波多野爽波の作品に共通する構造としての不連続性。これは、決して些末な問題でない。単なる見た目の違いでなく、この構造を許容するかどうかで、読み手にどのような読み方を求めるかどうかがはっきりと異なってくるからだ。
しかも、この違いが、具体的な語彙や文体によらない、という点も興味深い。つまり、語彙や文体が前衛的か伝統的かに関係なく、その俳句が今っぽいかどうかを判断できる材料になりえるのだ。
裏をかえせば、今っぽさを劇的に突き抜けていこうとするとき、その俳句は構造として反現代的なのではないか、という―――これはあくまで予想だけれども―――予感が私にはある。
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