2017-01-29

俳句雑誌管見 繋がり 堀下翔

俳句雑誌管見
繋がり

堀下翔

初出:「里」二〇一五年六月号(転載に当って加筆修正)

一句の中であるものとあるものとがゆるやかに繋がる。

雲は空はなれて秋の金魚かな 太田うさぎ

浦を咲く梅ある犬の屍かな 生駒大祐

共に「豆の木」二〇一五年五月号

太田の句は第二十回二十句競作豆の木賞を受けた「Cloudy」の第一句。意味内容としては「雲は空はなれ」ることと「秋の金魚」との二つに分かれているが、それが接続助詞「て」によって繋がっている。

「雲は空はなれて」というのは、簡単な言葉で書かれているが、実は難しい。雲が空以外のところへ行ってしまうことはあるだろうか。あとで「金魚」が出てくるので、そのイメージを借りるとすれば、雲がまるで金魚のように自由気ままに泳ぎはじめ、空の外、たとえば宇宙などへ行ってしまう、というのはアリかもしれない。けれど、突飛だし、ちょっと幼稚。

もっとシンプルに想像しよう。「金魚」のイメージを借りたのは悪くなかっただろうか。金魚のように流れる雲。

ある雲をずっと見ている。雲は流れている。「はなれ」てゆく一部始終を目撃したからには、少し早い雲だろうか。「雲」はやがてある方へ流れてゆき、視界から消える。掲句においては「空」としか書かれていないが、ほんとうは自分の視界に入っている部分的な「空」なのではないか。

で、「秋の金魚」だ。金魚の泳いでいる水が、「空」と並べられることで、雲のなくなった高い空とダブる。前半部分と後半部分はもともと何もかかわりのないことがらであった筈だが、「て」で一つになっている。両者が共有している、さっぱりとして、そしてまじりっけのない気分は、繋がることでいっそう強くなった。

受賞二十句にはこの連用的な繋がりが多い。〈固き桃手にとり雨の降りさうな〉もそうだ。この句、もっとばっさりと言葉を切り捨てることだってできた筈だ。たとえば、「固き桃」とだけ書いて、そのあとに雨の予感を取り合わせたとしても、読者は桃と雨のイメージの重なりを受け取ることができただろう。しかし太田は、ことさらに「手にとり」と書き、「固き桃」のあとでぶっつりと切ることを避けた。断絶感を感じさせないゆるやかな繋がりが、魅力を生んでいる。

生駒の句は連用形ではなく連体形で繋がっている。

「浦を咲く梅ある」ことと「犬の屍」とはほんらい関係がない。それを連体形で一つにしてしまった。さっきの太田の句とは異なり、はっきりと「ある」が「屍」に掛かっている。修飾、被修飾の関係に見える。

連体的な繋がりによって、二つのことがらは切っても切れない関係になる。それは、梅の咲く浦に犬の死骸があるといった程度の表面的な位置関係にはとどまらない。「浦を咲く梅ある」という事実自体が、「屍」を修飾しているのである。「浦を咲く梅ある」という空間は、ここで犬の死と同質になっている。連体的な繋がりが混沌としたイメージを作りだしている。

余談だが、掲句は「浦に」ではないのもにくい。「浦を咲く」だ。この「を」は、格助詞の「を」である。といっても、目的格ではない。いちおう経路の「を」と取ることができるだろう。「吹雪を来る」「街道を行く」というときの「を」。移動の動詞が来ることが多いので「咲く」なんて言われるとどきっとする。「に」だと、ある一点を指し示してそれきりの感があるが、「浦を咲く」だと、浦のいくらかの距離が見えくる。景の大きさが違うのである。

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