ことばの原型を思い出す午後
飯島章友の川柳における〈生命の風景〉について
小津夜景
『川柳カード』11号(2016年3月)原稿を改変
1. はじめに
飯島章友の川柳を読んでいると〈捩=ぐにゃぐにゃ〉ないし〈熟=ぐちゅぐちゅ〉した質感をしばしば目にします。
線という線のメビウスたる地平
ほっておけ徘徊中の月だから
惑星が搗ち合いやまぬ渋谷、雨
地上では蠢くものが展く地図
ねじれたラインの入りくむ「地平」。ぐるぐると動きまわる「月」。飛びちがう惑星の軌道のような「雨」。くねくねの湧きつづける「地図」。もちろんこんな感じじゃない句もいっぱいあるんですが、でも何だろうこれ?と気になる程度には、飯島作品というのはぐちゅぐちゅ・ぐにゃぐにゃしている。いったいこうしたモチーフは、作者にとってどのような意味をもっているのか? それを整理するのが本稿の目的です。
2. 変質と生命
初めに引くのは熟成、発酵、腐熟、孵化、半熟などの〈熟=ぐちゅぐちゅ〉として世界の質感が描かれた例。
水孵るコンビニの灯を浴びながら
醗酵はセンサーライト浴びながら
仏蘭西の熟成しきった地図である
髭を剃るアボカド熟れているときも
饐えてゆく桃 うそはまだあるはずで
オムライスみんなこわくはないのかな
最初の三句は変質の発生から熟成まで、また後半の三句は後熟段階から死までが詠まれていますが、いずれにおいても作者が対象の変質にじっと感覚を研ぎ澄ましているのがわかります。とくに後半の「髭を剃るアボカド熟れているときも」「饐えてゆく桃 うそはまだあるはずで」 では、髭に刃をあてる光景やあるはずの噓といった予感が〈迫り来る死〉の記号として機能しているようす。また変成の完了した卵、すなわち生命そのものであるはずのものの全き死を怖がっているとおぼしき「オムライスみんなこわくはないのかな」は、作者の心境がはっきり書かれているという意味で貴重です。
飯島作品にとって「卵」とは何かについては、柳本々々にたいへん重要な考察〔*1〕が存在します。柳本氏は、飯島作品の言語空間における「オムライス」ないし「卵」とは「未生から生、あるいは生から死への変質」を表すモチーフでありかつ「生と死が交錯する〈生命〉をめぐる意味空間の生成装置」だと推論します。そしてその推論を「ナイフにて開く半熟オムライスまたは誰でも良かった犠牲者」というこの作者の短歌で裏打ちするのですが、柳本氏の「生と死が交錯する〈生命〉をめぐる意味空間の生成装置」なる見方は、卵のみならず〈熟=ぐちゅぐちゅ〉にまつわる変質一般に対する飯島作品の緊張感を説明するのにもぴったりです。
3. 逼迫する時間性
さらに柳本氏は「とおいとおいみらいをおもう箸先で卵の黄身をつついたりして」といった短歌を引いて「この歌で大事なのは『つついたりして』じゃないかとおもうんですね。〈つつく〉ということは、破裂・破砕のリスクがあるわけです。語り手はあえてつつくことで未知の時間を〈いま〉あふれさせようとしている。『とおいとおい』とはいいながらも、がまんしきれずに、逼迫する時間性がここにはある」と主張します。この主張もまた卵の枠を超えて、次のような作品を読み解く糸口にできそうです〔*2〕。
息止めていてくださいね羽化します
ああ、ああ、と少女羽音をもてあます
みじか夜の淫夢みるみる声変り
変声はコーヒー豆を落としつつ
梅雨の冷えかふかかふかと咳をする
これらは主として身体成熟という変質性をファンタスティックに描いた句ですが、「息止め」「ああ、ああ」「声変り」「変声」といった声帯描写は、大人という遠いはずの時空が「逼迫する時間性」として作中人物を襲うようすを非常にスムーズに演出しています。少しだけ解釈を挟むと、四句目「変声はコーヒー豆を落としつつ」における「コーヒー豆」は、おそらく焙煎が人工熟成といった変質性であることから導き出された語でしょう。また五句目「梅雨の冷えかふかかふかと咳をする」の「かふかかふか」はあからさまな「変身」の喩。梅雨冷えによる身体の変調が、語り手に自己のメタモルフォーゼを幻想させたのだと思われます。
4. 螺旋的起源へ
ところで卵というのは殻、半透明の薄皮、水っぽいゼリーなどで覆われたオブジェですが、こうした覆いすなわち〈境界〉を熟視したり破砕したりする衝動は、次の句群を見ても作者にとってかなり強烈です(ちなみにこの〈境界〉は水、硝子、鏡、窓、壁、障子、皮膚など、さまざまなヴァリエーションでもって飯島作品を満たしています)。
@みつ@@めなさ@@@@い胎まで
アメッシュに胎児の夢が映り出す
擦り硝子越しなる母と姉の腸【わた】
実母から伸びゆく錆びた螺旋階
「誰ですか」(落したのですDNA)
卵子、あるいはとぐろを巻くへその緒のような「@」の狭間に現れる、胎内を熟視しよとの命令。水膜の喩である「アメッシュ」に映る胎児、すなわち成熟中の生命の見る夢。磨り硝子の向こう側に見える、似かよった二本の腸。実母を突き破って伸びる、腐食した螺旋。DNAを探す誰か(おそらく身体以前の生命)とテレパシーで会話する語り手。このように作者が見尽くす〈境界〉の内部は、通常の生と死をめぐる〈熟=ぐちゅぐちゅ〉イメージをはるかにさかのぼり、生命の原型たるDNA二重螺旋すなわち〈捩=ぐにゃぐにゃ〉の領域にまで及んでゆきます。またこの延長上にあるのが次の二句。
うな底につがいとなれり双つの眼
浮いてたね鏡文字など見せ合って
ここでは「つがいとなった双つの眼」や「見せ合っている鏡文字」といった双生児性を際立たせる演出が、一対かつ二重なるDNAと同範のイメージを担いつつ、海底や浮界といった生命の起源的トポスを漂っています。さらに言うと、飯島章友にはこうしたイメージを全てひっくるめた 「シニフィアン/シニフィエ」という連作もあって、そこでは本稿で確認してきた要素がこの上なくオーガニックに息づいています。
シニフィアン・シニフィエ
雨催いくすりくすりとバナナ熟れ
文字盤のⅫが海であったころ
否と言うシニフィアン氏のうすいくちびる
時計草、否磔刑の男たち
手鏡の縁がとけゆく 雨ですね
蓮根の穴を墓場と決めている
残された骨を象形文字と呼ぶ
【詞書】蟬たちを拾ってあるく、そのような
九月生まれのぼくの天職 佐藤弓生
文字盤で蝉を育てるぼくの天職
九月の蝉を拾い集めるシニフィエ氏
くちびるは天地をむすぶ雲かしら
「雨催いくすりくすりとバナナ熟れ」の、今にも空を破ってあふれそうな雨催い=切迫する時間と、熟れるバナナ=変質のとりあわせ。「文字盤のⅫが海であったころ」「九月の蝉を拾い集めるシニフィエ氏」「文字盤で蝉を育てるぼくの天職」では、時間をつかさどる文字盤を生命のはじまるトポスとしての海に例え、そこで蝉という、おそろしいまでに熟成に似た生涯を送る生命を拾い集め、天職として飼育します。「時計草、否磔刑の男たち」の「時計草」はキリストの受難を象徴する花なので、そのまま〈未来のようにみえて実は逼迫する死の時〉の表象とみなすことができる。そして「否と言うシニフィアン氏のうすいくちびる」「くちびるは天地をむすぶ雲かしら」の、一対性および二重性を表象するくちびるのズームアップと、そのくちびるに危うく結ばれてる天地の星雲的質感。
ここへ来てこの連作最大の謎は「シニフィアン・シニフィエ」というタイトルの意味するところとなりました。私の考えでは、このタイトルは〈一対性/二重性/螺旋性〉を体現する〈言語という生命の二重螺旋モデル〉として作者がシニフィアン/シニフィエを捉えていることに由来します。またここから作中の「シニフィエ氏」と「シニフィアン氏」とが鏡合わせとなった一人の人物、すなわち「ぼく」であるといった予測も可能となるでしょう。
「ぼく」とは〈シニフィアン/意味するもの〉と〈シニフィエ/意味されるもの〉との〈捩れ〉に宿る存在です。また「手鏡の縁がとけゆく 雨ですね」と書かれる通り、自分の姿を覗き込む(熟視する)ときもその変質は止むことなく、つねに〈熟れ〉ゆくイメージに覆われた存在でもある。そんな「ぼく」の変質が止むのは、シニフィエ氏とシニフィアン氏の死んだあと「残された骨を象形文字と呼ぶ」ときなのかもしれません。
これが飯島章友ならではの世界を読者が追体験するのに恰好のテクストであるのは以上のとおりです。あらゆる対象への熟視に基づいた生命の風景。よじれとうごめきとが織りなすその蠱惑のたたずまい。こうした世界をかくも気品ある寓意と宇宙的な肉感とを共存させつつ描きつづける作者に対し、わたしは心から脱帽するものです〔*3〕。
註
〔*1〕柳本々々「こわい川柳 第七十二話」
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-940.html
〔*2〕〔*3〕今回のエッセイの趣意を離れた場面においても〈生と死が交錯する意味空間の生成装置〉〈いまここにあふれそうになる未生の時間〉〈未来のようにみえて実は逼迫する時間性〉といった感覚をあつかう作品が飯島章友には多いようです。一例を挙げると、本文で引用した「とおいとおいみらいをおもう箸先で卵の黄身をつついたりして」のヴァリアシオンとおぼしき「〈戦争の放棄〉を守るわたくしは幸せの字を「死合せ」と書く」には〈しあわせ〉という言葉のもつ、いま述べた特色に加えて、生と死とのあいだの〈一対性/二重性/螺旋性〉にまで意識が及んだ典型的作品といえるでしょう。
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