【「俳苑叢刊」を読む】
第1回 松本たかし『弓』
内なる詩心
冨田拓也
『弓』は、昭和十五年(一九四〇年)に三省堂から刊行された。その内容は、松本たかしの大正十三年(一九二四年)春から昭和九年(一九三四年)の期間における約十年間の作品の中より自選された二七四句で構成されている。
たかしは、明治三十九年(一九〇六年)、東京生まれ。宝生流の能役者の家に育った。大正九年(一九二〇年)、十四歳の頃、病気療養中に「ホトトギス」を読み、俳句に興味を抱いた。その後、大正十二年(一九二三年)、十七歳の頃、高浜虚子に師事。大正十五年・昭和元年(一九二六年)、二十歳の頃に能役者となることをほぼ諦め、俳句に本格的に取り組みはじめた。昭和四年(一九二九年)、二十三歳で「ホトトギス」同人。
本書『弓』の以前に、昭和十年(一九三五年)刊の第一句集『松本たかし句集』、昭和十三年(一九三八年)刊の第二句集『鷹』がある。
『弓』の作品からまず受ける印象は、虚子の客観写生の教えに忠実な作者というものである。
秋晴れてまろまりにける花糸瓜 『弓』 (「晴」は、旧字体での表記)
凍りたる雪著いてあり花椿 〃
くつがへる蓮の葉水を打ちすくひ 〃
目をとむる暫しのあはれ韮の花 〃
燕の飛びとどまりし白さかな 〃
いずれも実景に基いた作品といえる。どの句も現実の景における意外性が捉えられており、単に想像によってなされたものではない。このように、たかしは、基本的に実際に目にした事物を句とする作者ということになる。
たかしの作品における特徴として、内なる主観の強さが挙げられる。
蟲時雨銀河いよいよ撓んだり 『弓』
金粉をこぼして火蛾やすさまじき 〃
金魚大鱗夕焼の空の如きあり 〃 (「焼」は、旧字体での表記)
枯菊に虹が走りぬ蜘蛛の絲 〃
ひく波の跡うつくしや櫻貝 〃
夜の宙空に撓む銀河。火蛾のこぼす鱗粉を金粉と見る視点。金魚の鱗に夕焼そのものを想起する意識。蜘蛛の糸に虹を見出す鋭敏な感覚。砂浜に点じられた桜貝の鮮烈さ。これらの句からは、川端茅舎の世界とも通じる、やや過剰ともいうべき美意識が感じられる。いずれも華美な内容でありながら、さほど嫌味な感じがしないのは、表現における無駄の無さと抑制ゆえなのであろう。
そして、もうひとつの特徴として、ある種の密室性が挙げられる。
とつぷりと後(うしろ)暮れゐし焚火かな 『弓』
病床に上げし面や下萌ゆる 〃
たんぽぽや一天玉の如くなり 〃
玉の如き小春日和を授かりし 〃
ストーブの口ほの赤し幸福に 〃 (「福」は、旧字体での表記)
密室性といっても、これらの作品を見ると、単に閉鎖された世界というわけではなく、その空間にはなにかしらの光芒の存在が認められ、まるで小さなユートピアとでもいうべき趣がある。
師の教えに忠実、抑制を伴った主観的表現、そして、単なる閉鎖性とは異なるユートピア的空間。こういったある種の規矩(きく)の内における詩心の発露が、たかしの作品の基底をなしている。
この『弓』の時期以降、たかしの句境が深化したのかどうかは、疑わしい。その後の作も、優れた句や力作が間歇的に認められるものの、代表作の多くはこのあたりの時期のものとなる。
これは、単にたかし個人の問題というよりも、「ホトトギス」という集団自体が、この時期に徐々に衰え始めていたことと関係がある、と考えられそうである。
この昭和初期の俳句界は、実に波乱に満ちている。よく知られているように昭和六年(一九三一年)に、水原秋櫻子が「ホトトギス」を離脱。その後、昭和十年(一九三五年)に、山口誓子が「ホトトギス」を離れ、秋櫻子の「馬醉木」に参加。そして、昭和十一年(一九三六年)には、杉田久女、吉岡禅寺洞と共に日野草城が「ホトトギス」を除名された。
四Sの内、秋櫻子と誓子が「ホトトギス」を離れ、四S以外の「もう一人のS」ともいうべき草城(本当は「四S」ではなく「五S」なのかもしれない)も「ホトトギス」を去っている(除名されたわけだが、実際は、草城が意図的に虚子に除名されるように仕向けたという)。このように昭和は、それまで続いていた虚子の支配体制が揺らぎ始めた時期となる。
昭和十五年(一九四〇年)に刊行が始まったこの「俳苑叢刊」全二十八冊の顔ぶれを見ても、「ホトトギス」の俳人は十三人程度であり半数に満たない。秋櫻子離脱の昭和六年(一九三一年)からわずか十年弱でこういった変化が見られるわけであるから、俳句をめぐる状況は明らかに以前とは異なっていたということがわかる。
また、作品面においても、
「ホトトギス」雑詠欄と言えば、田舎では始めて一句入選した時、句仲間を招いて入選祝をしたというほどえらいものであった。大正期に水巴・蛇笏・石鼎・普羅等がくつわを並べていた頃、大正・昭和の交に秋櫻子・誓子・青畝・素十等の四Sが巻頭を競った頃が雑詠欄の豪華時代で、草田男・左右時代を最後として戦時中から著しく低調なものになつた。という言葉が見られる(原文は旧字体での表記)。現在から考えると意外かもしれないが、これが当時俳句に関わっていた者の偽らざる実感なのであろう。結局のところ、虚子の「ホトトギス」が作品面において実質的な力を有していたのは、昭和の始め(昭和一桁)あたりまで、ということになるようである。本書『弓』の収録作品もこの時期のものとなる。
山本健吉『「ホトトギス」の雑詠選』(「俳壇時評」 一九五二年二月七日)より(山本健吉『昭和俳句』角川書店 昭和三十三年(一九五八年) 収載)
たかしの俳句は、秋櫻子、誓子、草城のように「俳句の明日」を拓く性質のものとはいえず(その後の俳句界は、基本的に秋櫻子、誓子、草城の系譜が中心となってゆく)、またその作品は、日本の詩歌の歴史をどれほど踏まえたものであるのかについても疑わしい(そもそも虚子の「ホトトギス」は、日本の詩歌の歴史を顧みないかたちで成り立っているのではないか)。
たかしも、草城や秋櫻子、誓子のように虚子の圏内を離れ、俳句の「新しみ」を目指すことが可能だったはずだが(草田男に対する理解を示しているところからそのことは推察できる)、その道はとらず、意識的に「ホトトギス」にとどまったのかもしれない。
秋扇や生れながらに能役者 『松本たかし句集』
芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり 『弓』
たかしには、どこか運命にそのまま従うとでもいった気風が感じられる。まず、出生の場所が能役者の家であり、幼少の頃から自らの意思とは無関係に能を行う環境の中で育ち、続いて、十代の半ばから病という自身の力ではどうすることもできない運命に見舞われた。そういった境涯が、自らの運命に対してある種の悟性とでもいうべきものをもたらしていた、と考えてもおかしくないであろう。
ともあれ、本書『弓』は、特異な境涯を背景とする、優れた資質を有した俳人の原初の詩心の閃きを封刻した精華といえる。
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