【週俳12月1月の俳句を読む】
キュビズムと映画
赤野四羽
闇白し幹が奥へと縦に続き 生駒大祐
落ちそしてとほく梢とかよへる葉 同
生駒大祐は豊富な技法を身に付けており、特定の手法を追求するタイプの俳人ではないが、比較的このタイプの句をよく見かけるように思う。限定された景を分割し、複数の側面を同時に提示する手法である。近い手法として、カメラのパンワークを思わせる視点の移動がある。たとえば
別れゆく人人ごみに春の雨 星野立子
などだ。しかし生駒の場合はカメラの移動というよりは複数視点による空間のねじれ、歪みのような感覚が先行する。
これは絵画でいえばキュビズムに相当する手法といえる。某所に鴇田智哉の俳句はド・スタール的手法だと書いたが、写生から出発して絵画の抽象表現を俳句に取り込んでいくのがこれら現代俳句の特色といえるのかもしれない。とはいえ問題は、絵画においては表現を抽象化すればするほど質料という具象が立ち上がるのに対し、言語表現たる俳句ではそれがないことだ。その辺りにどう向き合っていくのかが楽しみである。
冬晴れて未来のやうな無人島 中村安伸
マフラーを編み国境の橋を編む 同
中村安伸の俳句にはいわゆる作中主体が希薄である。超現実的な描写のためもあるが、どちらかというと、映画の一シーンを観ているような感覚がある。たとえば揚句では007スカイフォールに出てきたような、捨てられた廃墟の島。未来と言われて廃墟が思い浮かぶのは残念だが、もはやドラえもんやアトムの未来を夢想できるほど人類は子どもではなくなった。あるいは海外ドラマ”ブリッジ”に登場するような、国境を隔てて係る巨橋の情景。少なくとも日本には国境の橋はないわけだから、異国の光景ではあろう。暖かい人間関係を思わせるマフラーと、巨大なシステムの裂け目である国境。橋を架けるどころか壁を築こうとする大国の時代に響く句である。
その質問大根煮ながらは違反 青柳飛
大根煮というと、
死にたれば人来て大根煮きはじむ 下村槐太
が思い浮かぶ。
どちらの句においても、大根煮は質問や死との対比に用いられている。つまりここでもなんらかの重大な、クリティカルな質問をしてしまったのであろう。そういえば短歌では缶チューハイがそういう役回りだったこともある。
百円で落つる神籤や枯柳 小関菜都子
考えてみれば百円チャリンと入れて運勢がカコッと出てくる自動販売機なんて、あまりに風情がなくてげんなりするが、慣れとは恐ろしいものである。
冬のベンチにも体が沿うてきた 西生ゆかり
待って待って待ちくたびれる、冬の冷たいベンチも温まるほど。姿勢もだんだん崩れてきて、あーもうこのまま寝てしまおうか。
脱ぎ捨てたものがかさこそ鳴っている 瀧村小奈生
いくら思い切りよく脱ぎ捨てても、ものごとは簡単には片付かないものだ。脱ぎ捨てられたものたちも大人しくはしていない。視界のすみでかさこそと蠢くのである。
2017-02-05
【週俳12月1月の俳句を読む】キュビズムと映画 赤野四羽
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