評論で探る新しい俳句のかたち(15)
新しい構文は可能か、という命題(いったんの結びとして)
藤田哲史
私がはじめて俳句と出会ったとき、その鑑賞のキーワードはつねに「取り合わせ」と「切れ」だった。
これらは俳句についての詩法のキモであると同時に、初心者がしたり顔で用いるのを憚られる聖域でもあった。
そして、これらの詩法は俳句独特の語法と分かちがたく結びついていた。
いち初心者だった私は、現代語と俳句の語法との隔たりにとまどい、「取り合わせ」より微に入る鑑賞ができないことに歯がゆさを覚えた。
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やがて何年か経って
現代語を用いて俳句を再構築することは可能か
という命題は、私が俳句を作るテーマの一つになった。
このテーマは極めて技術的な問題であると同時に、どうやって俳句は現在の詩たりえるか、という本質的な問いへの解決方法になりうる。
ただそのためには、「取り合わせ」や「切れ」の核心を言葉によってつきとめなければならない。俳句の語法を現代語で再現するため、俳句の詩法を一般的な言葉で表現しなおすことは避けてはとおれない。
そんな考えからこの「評論で探る新しい俳句のかたち」という表題が生まれた。
芸術によくあるような天才的なひらめきや感動からは随分かけなはれたやり方になってしまったけれど、この表題による文章で目的のいくぶんかは果たすことができた、と感じている。
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俳句についての分析といってまず思い浮かぶのは、俳句の創始者・正岡子規の「俳句分類」だ。
子規は、膨大な量の発句を季語と季語以外の語彙の組み合わせパターンで分類を行った。この子規の分類は、文法的にいえば名詞に重点を置いた分析で、たしかに動詞すら省かれることがある俳句の語法のうえでは、名詞に注目した分類は直感的であり、また新しさを示すうえでもとてもわかりやすい。
ただ、子規のような名詞を軸にした表現の捉え方は、私の現代語による表現の模索にはそぐわなかった。
そこで私が着目したのは、むしろ名詞以外の部分、「切れ字」を含む助詞であり、構造だった。
構造という視点から俳句を見ると、現在よく言われる俳句の「切れ」は構造の不連続性と言い換えられること、そして、その構造は俳句表現においては「切れ字」を含む構文によってはっきりと示されることがわかった。
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このような俳句用語の捉えなおしによって、
現代語を用いて俳句を再構築することは可能か
という命題は
現代語による新しい俳句構文はありえるか
という命題と同値になった。
この点を明らかにしておけば、もう現在の俳句から<新しい俳句のかたち>までの距離はごくわずかだ。
私たちは「伝統」や「前衛」に対しての精査という作業を通らずに新しい俳句表現に肉薄することができるだろう。
そして、この現代語による新しい構文のヒントは、「口語」よりも「文語」らしく見える俳句の間に埋もれている。省略の効いた俳句語法の緊密さを保ちつつ、現代語の感覚を持った俳句に。
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という具合で、ここでいったん筆を置いて、また今日もいち作り手として机に向かおうと思う。今の私のいる場所は、そんなところだ。
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