あとがきの冒険 第24回
穂村弘・関係存在・太宰治
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』のあとがき
柳本々々
太宰治『人間失格』には、終わりに「あとがき」がくっついている。これは『人間失格』にとってはとても重要な構造になっている。『人間失格』の主人公は大庭葉蔵であるのだが、その大庭葉蔵の手記を紹介している「私」が「あとがき」に現れることによって大庭葉蔵もひとりの「人間」としてわき役に押しやられてしまうのだ。この冒頭と終わりに出てくる、ちょっとずるい、謎の「私」が書いた「あとがき」を引用してみよう。
この手記を書き綴った狂人を、私は、直接には知らない。(……)「このひとは、まだ生きているのですか?」「さあ、それが、さっぱりわからないんです。十年ほど前に、京橋のお店あてに、そのノートと写真の小包が送られて来て、差し出し人は葉ちゃんにきまっているのですが、その小包には、葉ちゃんの住所も、名前さえも書いていなかったんです。空襲の時、ほかのものにまぎれて、これも不思議にたすかって、私はこないだはじめて、全部読んでみて、……」「泣きましたか?」「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああなっては、もう駄目ね」(太宰治『人間失格』)ここで「私」は大庭葉蔵のことを「このひと」と呼んでいる。「私」にとっては大庭葉蔵は「このひと」くらいの関係性でしかないのだ。わたしたち読者は大庭葉蔵が、「いま自分には、幸福も不幸もありません」と村上春樹『ノルウェイの森』の主人公のような〈どこにもない場所〉にたどりついたのを見届ける。この物語のなかに埋め込まれた「あとがき」によって大庭葉蔵を「このひと」として相対化=関係化するのだ。
大庭葉蔵は『人間失格』においては、「このひと」として終わる。
この『人間失格』が教えてくれるのは、「あとがき」とは〈関係増殖=関係構築の場所〉ではないかということだ。
たとえば、穂村弘さんの『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の「手紙を装った「あとがき」」である「手紙魔への手紙」を見てみよう。
一体どんな女の子か興味があったし、夏休みに東京に来ませんか、と誘ったら、行く、と云って、いきなり引越して来たのでびっくりした。しかも妹(ゆゆ)と黒ウサギ(にんに)を連れて。この〈あとがき〉ではタイトルの通り、「穂村弘」が「手紙魔」に「手紙」を書いている。ここではこれまでこの歌集の主人公であった「まみ」が「静かな、明るい女の子」として相対化=関係化される。「穂村弘」にとっての〈このひと性〉として。わたしたちは「まみ」に「穂村弘」という位相を通して出会い、この歌集を終えるのだ。
ここでもひとつの〈関係増殖〉が描かれている。『人間失格』では主人公の大庭葉蔵が「あとがき」で「このひと」として相対化されたが、この歌集においても「まみ」は「あとがき」で「女の子」として相対化される。
そうした〈関係増殖〉を「あとがき」に埋め込むことでいったいなにが生まれるのだろう。それは、大庭葉蔵像や手紙魔まみ像は決して決めうちできるようなものではないということだ。「私」や「穂村弘」にとっては〈そう〉だったが、あなたやわたしにとっては、また、違った位相が、関係構築が生まれるかもしれない。
葉蔵も、まみも、そうした、〈人〉と〈人〉との〈間〉に居続ける存在だということ。《関係存在》であるということ。
その意味で、葉蔵が手記存在であり、まみが手紙存在であることは興味深いと思う。どちらも誰かが・誰かに書いた間(あいだ)的なメディアだからだ。
わたしはかつて「あとがき」とは刻印なのだと書いたことがあるけれど、一方で「あとがき」はまったく逆の役割、そのひとに、いや誰にも刻印を渡せないようにする場所となることだって、ある。
だれも、葉蔵を、まみを、〈こう〉だと決めつけることはできない。ただ、ただ、それを読んだ人間の関係の構築と増殖のしかたがあるばかりだ。
あとがきとは、だれかを、にんげんを、関係を、殖やす現場でもある。
実は大庭葉蔵は「あとがき」において「このひと」とだけ呼ばれていたのでも、なかった。「葉ちゃん」とも呼ばれていたのだ。だから、葉蔵は「このひと」であると同時に、「葉ちゃん」でもある。むしろ、幸福も不幸も喪った大庭葉蔵は「葉ちゃん」として「神様みたいないい子」として『人間失格』を終えるのだ。
わたしはそのことを隠して書いた。わたしは、なんで、隠しちゃったんだろう。
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」 何気なさそうに、そう言った。「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」(太宰治『人間失格』)
(穂村弘+タカノ綾「手紙魔への手紙」『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館、2001年 所収)
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