俳句の自然 子規への遡行 56
橋本 直
初出『若竹』2015年9月号 (一部改変がある)
引き続き、「丙号分類」における「切」の分類の検討を進める。前回の最後に子規の「ぬ切」の句の分類を紹介しておいたが、この「切」は今日の俳句において言われる「切れ」の概念を単純に当てはめるわけにはいかないようである。まず、現在の一般的に考えられている「切れ」の働きを列挙しておくと、
●一つ、「切れ」は基本「や、かな、けり」など「切れ字」によって作られるが、切れ字でなくとも切れる。
●一つ、切ることによって短歌(下の句)との臍の緒を切り、一句の独立性、完結性を生み出す。
●一つ、一句の中間で切ることによってその前後の飛躍を生み、作品の内容に広がりを出す。
●一つ、詠嘆の働きをもち、句の格調をうみだす。
●一つ、原則として「切れ」は一句中一ヶ所のみとされる。
ひとまず、このようなところであろう。(ただし、実際には表現技術によって一句中に軽い切れと重い切れを併用する句も少なくない印象はある。)一方、子規が「切」の字を使って分類している句群をみてゆくと、多くはここで述べた「切れ」にあたるけれども、必ずしもそればかりですっきり分けられないことに気がつく。例えば前回の「ぬ切」で引いた句、
入道のよゝと参りぬ納豆汁 蕪村
うそ寒う昼飯くひぬ煤払 几董
村々の寝心更けぬ落し水 蕪村
これらの「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形で、句中で切れる働きをもち、いわゆる二句一章の形になっているので、現在の「切れ」の概念で考えてもまったく問題はないが、一方で、同じ「ぬ切」に分類されているものの、
水仙や鵙の草茎花咲ぬ 蕪村
この句は、今の俳句の主流の文脈で読めば、上五「水仙や」の切れ字「や」で切れているので一句の「切れ」は「ぬ」ではないことになるはずである。しかし、この蕪村の句はそう一筋縄ではいかない。この句を上五と中七・下五の二句一章の句として見ると、季節の異なる季語の季重なりになっていて、つなげて読んでもまるで意味がわからない句になってしまう。中七の「鵙の草茎(もずのくさぐき)」は「鵙の速贄」と同義とされる秋の季語であり、水仙とは季があわない上に、下五「花咲きぬ」の意味がまるで通じない。
岩波文庫『蕪村俳句集』の尾形仂氏の注釈によれば、蕪村はこの表現で「水仙の蕾の形を形容した」のだという。つまりこの句の場合、下五中七は上五の比喩ということになる。単純に解釈すれば、「まるで鵙の速贄のような水仙の蕾が花開いたことだ」ということであり、この「や」は「は」に置き換え可能なのである。つまり、文章としてみれば「や」は切れる必要がない。が、ここに切れ字が入っていることで間ができ、しばしこの謎解きを考えてから、ああ、と比喩であることに気づくような構造になっているのである。
子規らによる「蕪村句集講義冬之部(十)」でも、この句を引き、童謡に速贄の説明をした上で、「これは水仙の花が、茎長く伸びて上に花一つ咲けるを鵙の草茎に喩へたるならん。此の如く奇抜なる、しかも雅趣ある比喩は蕪村ならでは誰か用ひ得べき」と評価している。「蕪村句集講義」は子規宅に、虚子、碧梧桐、鳴雪ら日本派の主要メンバーが集まって開いた蕪村句の勉強会をまとめたもので、この「冬之部 十」の会は明治三十一年十月五日に開かれている。参集は子規、虚子、碧梧桐の三名で、記録者は子規。その時々で誰の発言や付記かを書いてあるものもあるのだが、この時は引用部の発言者が誰かの記述はない。引用と先の尾形氏の注釈との違いは、比喩の対象が蕾なのか咲いているのか、という点である。鵙の速贄といっても色々あるわけで、この蕪村の奇抜な比喩がどちらを指すのか俄に判じがたいが、尾形氏の説はまっすぐ伸びた水仙の緑の茎の先で蕾がニュッと折れ曲がった状態が、枝に刺さった速贄に似ていて(つまりちょっとグロテスクな形状で)それが美しい花を咲かせた、という意味であろう。鵙の速贄の本来の季の姿を踏まえた上での喩の使い方という解釈だと思う。一方で子規達の解のように、鵙の速贄の形状そのものが花のようだとなれば、「枯木に花」的な理解になってくると思われ、どうも尾形氏の方が解として自然であるように思う。
ところで、「鵙の草茎」には古来より語義に異説が多いようである。そもそも「くさぐき」は『万葉集』の古訓からきており、鵙が春になって山に移って姿が見えなくなることを草に潜ったと捉えたところからきている語のようである。和歌においては、「春さればもずの草ぐき見えずとも我は見遣らむ君があたりをば」(『万葉集』巻十)を本とし、恋人などを訪ねようとしても見えず会えないことを詠むのに用いられた。「蕪村句集講義」でいう「雅趣」がいかほどこれらを踏まえているか不明であるが、いずれにせよ「切れ」の理解だけでも古典の教養抜きには刃が立たないのである。
整理すると、蕪村の句は切れ字「や」を二句一章の飛躍の為につかっておらず、飛躍の強い奇抜な比喩との間に入れることによって間を持たせる働きをさせており、句末の「ぬ」が一句の完結の為に用いられている「切れ」だとみることができる。例えばもし「ぬ」を「て」に変えれば、咲くのは上五の「水仙」に返ってしまい、意味不明の句になってしまうだろう。
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