【句集を読む】
意味の変容の変容の愉悦
小津夜景『フラワーズ・カンフー』
関悦史
『円座』2017年4月号「平成の名句集を読む」第16回より転載
『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)は昨年(二〇一六年)に出たばかりで、著者小津夜景にとってもこれが最初の本となる。
小津夜景は一九七三年北海道生まれ、仏ニース在住の女性である。ネットを見ない層にはまだほとんど知られていない可能性もあるのだが、数年前からしなやかで鋭くもどこか余裕のある多産ぶりを見せつけており、本書はまさに待望の一冊だった。
「俳句」二〇一七年一月号の新春特別座談会「今年、この俳人から目が離せない!」では中原道夫、小澤實、小林貴子、中内亮玄の四人の出席者のうち中原、小澤が大穴として小津夜景を挙げ、《俳句のリゴリズムというものを私たちが振りかざす前に、別な意味で会得、感得している感じ》(中原)と、その唯一無二の完成ぶりに感心している。つまり結社や師系と没交渉に突如出現したとはいえ、詩や思想など他ジャンルに通じた手練れが俳句を組みしやすしと見て、かえって形式への無理解をさらけ出すというしばしば目にする光景とは無縁の一冊なのである。
実体感の希薄な作風という点では、最近の若手(ことに「オルガン」グループなど)に通じるが、稀薄さへと至るルートは作者によって異なる。この句集の場合特徴的なのは、死生に関する考察が、俳句とそれを囲む散文詩的な多数の長いテクストとによって、論述されるのではなく、体現されていることである。それも個人の身体を生きる形で。
ここで繰り広げられているパフォーマンスを--そう、本書は説明的(コンスタティヴ)にではなく、まさに行為遂行的(パフォーマティヴ)に書かれている--例えば男根中心主義(ファロセントリズム)批判、論理=男性中心主義批判の一種ということは可能だろう。しかしそうした硬い名を与えた途端、読者は意気阻喪する。そうした批判の有力なひとつであったフェミニズムが、たやすく論理的で攻撃的なマッチョに転じてしまう光景もわれわれはしばしば目にしているからだ。『フラワーズ・カンフー』のふわふわさは、そうした分節と硬直化をあくまで避ける。避ける営み自体が本編を成していく。
その批判性が最もあらわになっているのが「天蓋に埋もれる家」の章での『意味の変容』を批判する散文部分である。
『意味の変容』は、作中ではあえて作者を明示されていないものの森敦の連作小説であり、そこでは数学の近傍論を応用した死生論が語られる。円を描いたときその境界線は内部と外部のいずれに属するか、外部に属する、よって内部はそれ自体として境界のない全体となる。この外部を死、内部を生と見立てるというわけである。これは生誕時の記憶や死んだ時の意識を持った主体がいないことからも納得がいくアナロジーだ。
ところが小津はこの構造から「私」という一人称だけが他人事のように残されることを批判する。《さういふ全能感あふれる知性つて、とても小児的だと思ふの》と女言葉・話し言葉でもって構築性を避けながら。
これはしかし相手が森敦である必要は必ずしもない批判であり、事実、句集中最大の傑作というべき連作「出アバラヤ記」の詞書では「夫」も同種の批判の対象となる。
とはいうもののそれは「夫」に対する「私」の言説の定立や優位を意味しない。あとがきの言葉を借りれば批判する「私」自体が〈記憶〉と〈非-記憶〉の汀たる現在に対して開け放され続けるものであるからだ。
形而上的私小説じみたこの章は、それ自体が、〝ゆるふわ〟の立場(ならぬ立場)から生き直され、語り直された『意味の変容』なのである。章末の一句〈語りそこなつたひとつの手をにぎる〉には、思索と実存の間を漂う汀としての現在のみがもつ情感が、たしかに言いとめられている。
小津は未来への企投からではなく、過去の記憶、非-記憶との関係から現在という愉悦としての私を見出す。これはその場に居着いてしまった、武道家でもある小津にあるまじき固着状態とも見えるが(それを形象化したのが頻出する廃墟のイメージに他ならない)、しかし居着いた先は、その都度生成するゆえに構造化され得ない生-死の全体であり、そのため身軽さ、ふわふわぶりは一向に失われることがない。
多数の引用や連作形式、散文と句とが生む狭間そのものが、どこにも定位しない亡霊(くらげ?)のような愉悦の発生源である。批判的知性と実存の愉悦が重なる場として、非実体的な狭間は要請された。この句集はその稀有な実演としてある。
連作の文脈を離れて個別の句が残るとき、それは愉悦の化石のようなものとしてだろう。
くらげみな廃墟とならむ夢のあと 小津夜景
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