新連載
『ただならぬぽ』攻略1
ふとんからでる
柳本々々
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一
『週刊俳句』編集をされている福田若之さんから田島健一句集『ただならぬぽ』について書いてみませんかとお話をいただいたので、何回かにわたって書かせていただくことにした。
今年の二月くらいに田島健一さんの句集『ただならぬぽ』をイベントで読んでみませんかというお話を現代俳句協会青年部からいただいてもともと田島さんの俳句に一度ちゃんと向き合ってみたいという思いがあったので、はいやります、と言ったのだが、田島さんの俳句にどこから向き合えばいいんだろうと隙があると寝込んだりもしていた。かつて田島さんの「白鳥定食」の句の感想を書いて、なんだか自分が負け戦をしていたような負い目もあった。
田島さんの俳句に〈どこ〉から向き合えばいいのか、というのは結構むずかしい。ひとは、俳句に、〈どこ〉から向き合うんだろう。俳句をふだんつくらない私が俳句を読むことができるんだろうか、これちょっとまずいんじゃないか、〈ただならない〉状況なんじゃないか、私は多摩図書館にほんとうに行けるんだろうか、多摩図書館のリアリティがぜんぜんないぞ、とふとんのなかで思ったりもしていた。会場が多摩図書館だったので。ちょっとした、旅になる。私が昔住んでいた国立(くにたち)の近くだ。じんせいは、わからない。ふしぎなちからが、ある。
そのときふっとふとんのなかで思い浮かんだのが、『ハゲの女歌手』を書いた不条理演劇の作家イヨネスコが書いた日記である。私は人生のそのときどきでイヨネスコが書いたその一節を思い出していたのだが、〈そこ〉から始めればいいんじゃないかと思った。田島健一とイヨネスコの組み合わせは意外だったが、しっくりいった。引用してみよう。
わたしは小さな田舎町を散歩していた。突然私は心臓部に強い衝撃を受けた。それは事物の境界を崩壊させ、定義をばらばらに分解し、事物や思考の意味をなくさせてしまった。わたしはつぶやいた。「これ以外に、これ以外に真実はなにもないのだ」と。そのこれをむろんわたしは定義できなかった。それは定義の彼岸にあるものだった
(イヨネスコ『過去の現在 現在の過去』)コトやモノがとつぜん意味がなくなりばらばらになってしまう世界。しかしそれがこの私にとっては真実のように強く感じられてしまう世界。でもその強く感じられたことを言葉にすることがまったく意味をなさない世界。そういうアクロバティックな認識の〈根っこ〉の世界が田島句集の世界観なんだと、わたしは直観した。これぞまさしく、〈白鳥定食〉であり、〈ぽ〉ではないかと。
田島健一は俳句で〈世界のただならなさ〉を描いているんだと。
しかし、と私は(まだ)ふとんのなかで思う。こんなことを突然話し始めて、あのひとは少しようすがおかしい、だいじょうぶなのか、と言われないのかという心配があった。世界の根っこについて話すということは、けっこう、危機的な体験である。世界のルールに抵触するからだ。聞き手の生駒さんが、こいつなんかヤバいぞ、という眼でわたしをみつめている絵が想像できた。
うーん、でもなあ、と思う。
世界ずたぼろ夜空に実る枇杷の量 田島健一
田島さんの「世界」は「ずたぼろ」なんだよ、と思う。だって俳句にそう書かれているんだもの。だから、根っこの話をするしかないんだよ、と。たとえ、やぎもとくるっているとおもわれても。まあでも基本的に文学は《くるっている》。
わたしはその話をすることに決めた。ふとんから、出た。
己が何か知らざる咲いてみれば菊 田島健一
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