2017-05-21

死後の名声 森澄雄 ──作家は生きていてナンボか 上田信治

特集 死後の名声
森澄雄
──作家は生きていてナンボか

上田信治


1. 死後の名声について

作家は「生きていてナンボ」という言い方がある。 

私たちの俳句は「師系」という言葉がある世界で、死んだ人がだいじにされるほうだけれど、あらゆるジャンルの、大半の作家にそういう現実がある。

小説家の川上宗薫や田中小実昌が死んだとき、たちまち書店の棚から彼らのスペースが消え、すぐ、本自体、全く手に入らなくなったことをよく憶えている。

作家の肉体の消滅とともに作品が求められなくなるのは奇妙なことに思えたけれど、人が文化芸術といったものを求める動機のかなりの部分をコミュニケーション欲求が占めていて、作家本人がまず好きという読者が、たとえは悪いが、けものが死ぬと逃げ出す蚤のように、サアッといなくなるのだろうと、今は思っている。

絵描きが死ぬと、新作の供給がなくなるのだから絵の値段は上がるだろうと思うと、ほとんどの場合下がるのだそうだ。画壇での声望や政治力は、本人とともに消えてしまうのだから、その底上げ部分が消えるのだと考えれば分かりやすい。

もっとも有元利夫などは、いっこうに値段が下がらないどころか、ますます人気のようだし、なんならゴッホやカフカのような巨人も、笹井宏之や尾崎翠や金子みすゞも、死後に名声を得た作家として挙げられる。

波多野爽波や田中裕明が重要な作家として認められたことも、ほぼ本人没後のことだった。



森澄雄は、言わずと知れた昭和後期の大俳人の一人だけれど、近年、その評価が定まらないというか、あの高評価はなんだったんだろうという空気があるように思う。

森澄雄本人の人間性については、ゴシップ的にいろいろ言われていて、そういう人は死後、敬意や愛情に恵まれにくいということはあるだろうけれど、そんな話をしたいわけではなく。

一人の作家の句業がかつて高く評価され、今もしそうでないとしたら、それはなぜなのか、また、その現在の低評価は何か大事なものを見落としていないのか、ということを考えてみたいのだ。

物故作家の評価を改めるということは、その人の生涯の仕事の価値を「俳句の現在」なる未完成の価値基準において査定するということで、鼎の軽重を問われるのは、判者気取りでしゃしゃり出てきた読み手、つまり自分のほうだ。

だから、ふつうは、死んだ人についてはなるべく触れずにおくという形で、じょじょに、その人の二度目の埋葬が行われるわけだけれど。


2. 当代一流と書けば揶揄に当たる

さいきん、青木亮人さんが、金子兜太・飯田龍太・飯島晴子・高柳重信の森澄雄に対する発言について書いていた。

青木さんの文章「目利きと、承認と──俳誌の「評論」、そのいくつか」(『俳誌要覧2017年版』)に引用されているのは、昭和50年代初め澄雄が芭蕉回帰の志向を鮮明にしたことに対する反応だ(孫引きご容赦)。

金子兜太 最近の森澄雄の句は、もじりじゃなくてなぞりだと思う(…)なにやらひどく気の抜けたところで、てめえのところに引きずり込んでいくんですね(…)そして、どっかで芭蕉の作品の匂いなぞを出してみたりね(…)芭蕉の匂いを採用しながらてめえの部屋の匂いをよくしているような……(…)
飯田龍太 あれだけ図々しくなぞっている俳人というのはかつてなかったし、今日もないと思ったね。これは逆説ではなく、感心しているんだ。

(「俳句」昭和52年1月号鼎談)

森澄雄がシルクロードで「芭蕉の近江にひかれ」「『行春を』の一句が浮かび上がり、何故かふかぶかとした思いにさそった」(昭和50年「奧の細道」)と書くことが、兜太には「てめえの部屋の匂いをよくしようとする」自己演出にしか見えなかったらしい。それは、兜太の文学観・作家観から理解できなくはないが、まあ、ひどい言いようだ。

飯田龍太も、澄雄の仕事が、金子のいう「なぞり」であることを認めている。その方法の可能性自体を否定してはいないが、たしかに「数段人の悪い表現で冷静に見ている」(青木前掲文)と見えなくもない。

飯島晴子 森さんがああいう風に仰るし、ああいう風な作品をお書きになって、ああいう方向に向かわれる必然性みたいなものは分かるんだけれども、それが森さんという一人の作家個人の事情を離れて、俳句全体の風潮としてよしとするという風に移行してしまう所に問題があるんじゃないかと思うんですけどね。(…)楸邨から脱出するためには、ああなるのが一番賢明 ────、と言っちゃ悪いけれど、それで私も同情はするんですけどね(…)

高柳重信 (…)師匠の楸邨より弟子の森のほうが、何となく保守的になっているように見える。その傾向について、現在の俳壇の一部では、さまざまな論を立てて擁護しようとしている。

(昭和52年12月「俳句研究」年鑑座談会)

ここで、晴子と重信は、森澄雄の試みは試みとして、その俳壇的評価の高まりを好ましくない趨勢としている。

青木さんは同じトピックをとりあげた別の稿(『カルチャーラジオ文学の世界 俳句の変革者たち』)で、昭和50年代初めは「モーレツからビューティフルへ」「DISCOVER JAPAN」の時代、すなわち、いわゆる「戦後」の終わりであり、レジャーブームと俳句人口の急増の時代であった。

青木さんは、平畑静塔の論(『俳句の本Ⅲ 俳諧と俳句』所収「昭和の俳句(戦後)」)を援用しながら、このころ時代思潮に決定的な変化があり、それと平行して俳句のレジャー化カルチャー化があり、それらの変化が、森澄雄の作風を俳句の中心に押し上げたのだとする。

芭蕉を「ビューティフル」に発見したのが森澄雄でした、と青木さんはラジオのテキストで書いていて、さすがにそれは気の毒だと思うけれど、澄雄の高評価には時代の追い風があったとすることには、あるていど説得力がある。



もうひとつ引用したいのは、小林恭二『この俳句がスゴい!』の森澄雄評だ(本書とその続編『これが名句だ!』の、個々の句に対する読みの深さと作家を位置づける手さばきは素晴らしく、俳句を読み書き楽しむための基礎教養書として推薦したい)

小林は、森澄雄について「1990年代以降の俳句シーンに対して、最大の影響を及ぼした俳人」であり、澄雄以前と以後とでは「俳句の質は明らかに向上」し「洗練度に大きな差」があるとする。これは、最大限の評価と言っていい(雑誌掲載は、澄雄の存命中だったと思う)。

しかし、小林は、その評価にある留保をつける。それは、澄雄の俳句の「真似やすさ」についてだ。

たとえば、山口誓子や三橋敏雄のような句風は、彼らの才能のきらめきによって成立しているので、並の俳人に、真似ようとしても真似られるものではない。

ところが、森澄雄の句風は、長年の努力によって作り上げたものであり「才能の輝きというより、境地で勝負している」「そしてその境地というのが、存外真似しやすい」というのだ。

澄雄の句を仔細に見ればその模倣者との差は明らかなのだと断りを入れつつ、小林は、学生のころ澄雄の主宰誌「杉」の句会に出席した経験について書いている。 

「当時、森澄雄は絶頂期」にあり、小林は「学生ながら澄雄の句は見分けがつくと思っていた」(鑑賞力には相当自信があったに違いない)。しかし、弟子たちの詠むそれふうの句と、澄雄の句は、まったくぜんぜん区別がつかなかったのだそうだ。



ここには、なかなかデリケートなものがあらわれている。

こういうとき視野の広さと公平性においてもっとも頼りになる、三橋敏雄による朝日文庫の解説はどうなっているか。

その森澄雄評の冒頭はこうだ。
先に飯田龍太について「当代一流」と記したが、まかりまちがうと揶揄にも当たる空疎な言葉づかいであった。消そうと思ったけれど、現俳壇におけるいわゆる伝統派の雄として人気抜群であることにはちがいはない。森澄雄もまた、どちらを先にするにしろ、龍太と並んで同様の名声を分けあっている。
(現代俳句の世界「飯田龍太・森澄雄集」解説 昭59)
これもまた、じつに微妙。敏雄は、飯田龍太についてはほぼ撤回している「当代一流」の語を、森澄雄のために残している。そして、あらためて澄雄も含めて「伝統派の雄として人気抜群」であると書き、その「まかりまちがうと揶揄にも当たる」言葉づかいを避けていない。



上にあげたもっとも優れた読み手たちの評言から浮かび上がってくるのは「澄雄が、昭和俳句の代表作家の一人であることに間違いないが、当代随一とは言えなかったのかも知れない」ということだ。

青木さんが引いている二つの座談会での言われようなど、彼がやや格落ちと見なされていたようですらある(それは本人もひがみっぽくなろうというものだ)。

しかし、横綱を並称する「柏鵬時代」「栃若時代」のような言い方で「龍太・澄雄の時代」という言葉があったのは事実だ。

昭和五十年代以降、その代表的作品の価値を疑う声はあったのだけれど、森澄雄が、飯田龍太と同格の、第一人者として遇されていたことは間違いない。




ここまで来たら、作品自体を、自分の目で読んでみるべきだろう。


3.代表句を読み直す

森澄雄のいわゆる代表句は、次のようなものだ。

冬の日の海に没る音をきかんとす 『雪櫟』(昭29・35歳)
枯るる貧しさ厠に妻の尿きこゆ
家に時計なければ雪はとどめなし
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり
磧にて白桃むけば水過ぎゆく 『花眼』(昭44・50歳)
綿雪やしづかに時間舞ひはじむ
雪嶺のひとたび暮れて顕はるる
餅焼くやちちははの闇そこにあり
雪国に子を生んでこの深まなざし
年過ぎてしばらく水尾のごときもの   
さくら咲きあふれて海へ雄物川  『浮鷗』(昭48・54歳)
寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ
田を植ゑて空も近江の水ぐもり
秋の淡海かすみ誰にもたよりせず
雁の数渡りて空に水尾もなし
白をもて一つ年とる浮鷗
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 『鯉素』(昭52・58歳)
西国の畦曼珠沙華曼珠沙華
春の野を持上げて伯耆大山を
若狭には佛多くて蒸鰈
炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島
ふり出して雪ふりしきる山つばき
みづうみに鰲(がう)を釣るゆめ秋昼寝
大年の法然院に笹子ゐる
さるすべり美しかりし与謝郡 『游方』(昭55・61歳)
火にのせて草のにほひす初諸子
つくだにの湖のいろくづ佛生会
億年のなかの今生実南天
朧にて寝ることさへやなつかしき 『四遠』(昭61・67歳)
はるかまで旅してゐたり昼寝覚
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ 『所生』(平元・70歳)
木の実のごとき臍もちき死なしめき 
なれゆゑにこの世よかりし盆の花 『餘日』(平4・73歳)
やすらかやどの花となく草の花 『白小』(平7・76歳)
いとほしや人にあらねど小紫 
水仙のしづけさをいまおのれとす 『花間』(平10・79歳)
美しき落葉とならん願ひあり 『虚心』(平16・85歳)


以上は、複数の代表句選を参考に選んだ。衆目の一致するところの代表句と言えると思う。



その作風の展開を見ていこう。

『雪櫟』『花眼』の澄雄(二十代〜四十代)は、非常に理知的でレトリカルな書き手だ。

冬日が「海に没る」とき音がしそうだ、というのは普通の見立て。それを「きかんとす」と、だめ押しすることで心象風景とする。

妻の排泄の音をきく感傷を「枯るる貧しさ」と前衛俳句風に一勝負する。

雪と時間の関連づけも普通の発想だし「水尾のごときもの」は、茫洋とした声調に魅力があるけれど、虚子の棒のごときものを連想させる。

この頃の澄雄の代表句のほとんどは、常識に類する発想・感慨を、冴えた言葉づかいで、目立つ句に仕立てたものだ。

楸邨にくらべればより観念的かつ技巧的で、突出したものは少なく、不器用かつウェルメイドという矛盾した印象を残す(「父の死顔そこを冬日の白レグホン」(昭38)というやる気ばりばりの句もあるが)。

ただ「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」については、女性を白鳥にたとえることはあまりにも当たり前だけれど、「除夜の妻」の含蓄、そして湯浴み姿を白鳥の曲線に結びつける映像で、女性像を典型化することに成功している。

「磧にて白桃むけば水過ぎゆく」は、磧と桃と水のそれぞれ違う物質性と時間性の交感が、使い減りしない興趣を生んでいる(本人が、それを青春の時間が過ぎることと結びつけて発言しているのは、やはり凡な気がする)。

「除夜の妻」と「磧にて」の二句は名句だと思うが、その価値は近代芸術の範疇にあって、その後の澄雄の真骨頂とされる句群とは、目指すところがだいぶ違う。



つづく『浮鷗』『鯉素』『游方』という、澄雄、五十代から六十代にかけての十年間に出された三冊の句集が、彼の同時代への影響と評価を最大にした。

「寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ」は大・名句で「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」は大・有名句だけれど、この時期の澄雄の本質は、それ以外の句にある。

さくら咲きあふれて海へ雄物川 『浮鷗』
田を植ゑて空も近江の水ぐもり
秋の淡海かすみ誰にもたよりせず
白をもて一つ年とる浮鷗


それぞれ芭蕉の〈さみだれをあつめて早し最上川〉〈田一枚植えて立ち去る柳かな〉〈初秋や海も青田の一みどり〉〈行春を近江の人とおしみける〉〈此秋は何で年よる雲に鳥〉のパラフレーズまたはレスポンスとして読める句だ。

こういう書法を指して、兜太や龍太は「なぞり」と言ったのだろう。

モチーフと語順がともに相似する句が見つかってしまうのは、習字にお手本があるようで、やや鼻白む(小林恭二は前掲書で、澄雄の「みづうみに鰲(がう)を釣るゆめ秋昼寝」が赤尾兜子の「大雷雨鬱王とあふ朝の夢」を下敷きにしている可能性が濃厚だと指摘していた)。

しかし俳句のフレーズやリズムは、ポピュラー音楽のそれと同様、写し写されしながら更新されていくものだから、この「なぞり」はアリだ。もちろん、それぞれ佳句であり名句であると思うし、こんな書き方もあるのかと驚かされる。

芭蕉の「海も青田の一みどり」というよく分かるフレーズと対比すると、「空も近江の水ぐもり」という意味的にぎりぎり伝わる語法は、その茫漠たる精神の演出としての意味の解体に、しびれるような現代性を感じる。

また「秋の近江」の句の中七「かすみ誰にも」の「かすみ」のぶっ込み方。一気に芭蕉の「ゆく春」のイメージを引き込みながら、その下でいきなり切れる。句全体のゆるやかな気息の中に、きわめて複雑なリズムを潜ませていることに、現代俳句としての新しさを感じる。

この二句などは、真似ようにも真似られないほうの句だろう。

若狭には佛多くて蒸鰈 『鯉素』
炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島
大年の法然院に笹子ゐる
さるすべり美しかりし与謝郡 『游方』


つづく二冊の句集『鯉素』と『游方』の代表句は悩ましい。

「若狭には」は、田中裕明へとつながる飛躍した取り合わせの句として、「炎天より」は、波多野爽波ばりの無意味無内容の写生句として、読めるし価値が分かるのだが……。

大年の法然院に笹子ゐる

日常意識から飛躍のない構文、しかも、季語が二つと歴史的背景のある地名という「よき」要素ばかり。カード(絵札)を三枚出して「上がり」を宣言されているような句で「役は?」と聞き返したくなる。

さるすべり美しかりし与謝郡

「杉」誌に発表されてすぐあと、この句は、山本健吉に東京新聞で激賞される。

「一読はっとさせる句。気づくと何かさわやかなもの、優雅なものが、胸のうちいっぱいに拡がってくるのを覚える句である」そして、その感興の実態は掴みにくいとしながら、「与謝郡」といえば天橋立、あるいは、蕪村のゆかりの地であるのに、たださるすべりが美しかった記憶、ただそれだけが浮かび上がってきたのだ、と、山本は句釈する。

つまり、地名から連想されるものを見せ消ちにした句である、と(そう言ってしまうと、そんな単純な話ではないと、二人に叱られそうだけれど)(じっさい、その解釈は、理が通りすぎていて、この句の不思議に届いていないという気がする)。

澄雄は、山本の文章に「恐らく今の俳壇に出しても通らないでしょう」と礼状を書き、山本は「多分に君が言うように通らんだろう。ただし、これが“俳”だ」と返信してきたそうだ。(『森澄雄とともに』榎本好宏)



「大年の」「さるすべり」の二句に、共通するのは、そこには、ほぼ、何も書かれていないということだ。地名と季語しかない。発見もなければ、文彩らしきものもない。

「ただごと」ですらない(むしろ、澄雄の「花眼」による朦朧体は「ただごと」の根拠である写生を否定して、世界と自我の輪郭を希薄化する方法だ)。

その方法をここまで押し進めれば、残るのはムードと空白である。

ムードというと人聞きが悪いが、要素の組み合わせと言語操作によって、そこに匂わされる、明示的に書かれていない第三項的なもの、という意味だ。


「いつも芭蕉を読みながら思うのは、その発想のふところのひろさ豊かさであった。同時に、近代の個我に執する発想の貧しさが心にあったといってよい」(昭46) 

「現代俳句は、現実の風景や、そのときの時間、哀しみだけに密着している。それが俳句の呼吸を浅くしているのではないだろうか。その点、僕は、風景を描きながら風景を包む空間の広さ、あるいは時間の過去も未来もその一句の中にとどまっている、というような呼吸の深さを、現代俳句に復活してみたいと願っている」(昭49)

「芭蕉が軽みと言ったのは、命の声がそのまま聞こえてくる状態にしていくことだろうと思います。決して句が軽いということではなく、余分なものが全部なくなって、ものが端的に見え、命が端的に聞こえてくるということだ」(昭51)

「俳句というものは、もっと簡単でいいと思う。俳句は一句全体が、名詞の強さをもって表現されていなければだめだと思う」(昭52)

「俳句別冊 森澄雄読本」 (昭54)より主宰誌「杉」掲載の澄雄の発言を引いた。これに類することを、澄雄はつねに言っている。現代俳句の貧しさを言い、それを救うためにつかまなければならないものは、曰く「いのち」曰く「すがた」曰く「呼吸」。

つまり、「大年の」「さるすべり」の二句のような、書かない書き方の肝は「いのち」「すがた」「呼吸」といった見えない何かを、言外に伝えることにある。

書かないことによって書く、言わないことによって言う、とは、幻術のようでもあるけれど、発表当時からその句が注目され、代表句として残っているということは、幻術が言葉のレベルで成立している証左ではないだろうか。

「大年」の句は、構成要素に加え、言い方までがボッサボサしていること。「さるすべり」の句は、上五下五を五音の名詞にした山本山式の(これも拙を装った)三段切れに近い語法が「うつくしかりし」を中心とする各語に異様な切迫性が生んでいること(あとはもちろん音韻と)。それが、この二句を傑出したものにしている、いわば手品のタネなのだと思う。

書いてあることは平易でも、それが作品として成立しているあり方は、非常に難解。

榎本好宏の前掲書によれば、同じころ弟子たちは「最近の句は分からない」「句会で澄雄の句を取れなくなった」「共感、感動できる部分がすくなくなった」「サービスがなくなった」「作品から指導性がなくなった」と感じるようになっていたらしい。榎本自身「さるすべり」の句に、さんざん悩まされている。



この時代の澄雄の句にむかうとき、読み手は、そこに書かれていないことを、空白の上に見出すようにうながされる。

うながすのは(1)それが俳句であること(2)空白というものの性質、それに加えて、(3)澄雄の顔とか信用というものだ。

空白には、読者自身の憧憬の「感情」が、投影される。

憧憬の感情は、澄雄が芭蕉や近江に向ける思いのいわば「うつし」である。それは、澄雄の思いとシンクロするように、句に書き込まれている(と信じられている)。

読者にとってその憧憬は、澄雄の文章や発言によって、あらかじめ内面化をうながされていたものでもある。そして、そこには森澄雄も対象として含まれる。

書き手と読み手の交感はそこで円環を閉じている。

ある価値を共有しあうものにとっては、価値の方角を示すサインを出してうなづきあえれば、それで何ものかが手渡されたことになる。

この書き方、よけいなことを「言わない」コツを呑み込んでしまえば、あとは季語や地名といったカードを並べる以上のことをしなくていい(しないほうがいい)ので、それらしい句は量産できる。小林恭二が境地というのが、存外真似しやすい」と書いたのは、ここのところだと思う。



あをあをと越後も雨の銭葵  『浮鷗』
六月や信濃は雲のはたた神
大阪やけふよく晴れてうめもどき
竹青しことに丹波の西日山 『鯉素』
木曽に入る秋は焦茶の猫じやらし

鶏頭やされども赤き唐辛子
白桔梗白木槿みな海蔵寺
行春の旅にゐたれば法然忌

法華寺の甍の雨の秋の昼 『游方』

同時期の作品から、上の二句のような、ミニマリズムを感じさせる句を拾った(けっして数は多くない)。

これらの句については「越後雨の」「信濃雲の」「けふよく晴れて」「ことに丹波の」「されども赤き」といった中七の語勢、「曼珠沙華曼珠沙華」に通じる「白桔梗白木槿」という繰り返し、「行春」「法然忌」の季重なりのような、最小限のレトリックを加えて成立している。

よきものの名で十七音をほぼ使い切ってしまうという、澄雄独特の書法は、残りのスペースでニュアンスを加えることで、プロフェッショナリズムを示す。

もし、この方向での作品の展開があったとすれば、デュシャンが「泉」のあとも、白いオブジェを作り続けたように、そこにあらわれる最小限のニュアンス、ムード、それによる固有性というものが追求されたことだろう。


4. 生きていてナンボかどうかは分からないけれど、病気はしないほうがいい

森澄雄は、六三歳の年に、脳梗塞を発症し入院する。

楸邨とシルクロードの旅行が五十三歳。その後、十年で第三句集『浮鷗』第四句集『鯉素』第五句集『游方』を得てののちの発症だった。上のいわゆる代表句群でいえば『四遠』以降が、病後の作になる。

『浮鷗』『鯉素』『游方』の三冊の達成と、『四遠』以後の作品には、断絶がある。

妻恋の絶唱という他はない一連の句をのぞけば、『四遠』以降の代表句とされている句は、自己言及、自己憐憫が目立ち、甘い(「数珠玉や歩いて行けば日暮あり」『四遠』「あさつきを吹いて鳴らして西行忌」『所生』といった佳句を数えることはできるけれど)。



森澄雄は、飯田龍太と並んで、戦後俳句における伝統回帰の代表的作家とされていたが、二人の志向するところは同じではない。

金子兜太は、森澄雄の死に際して「彼の句業の位置づけが不十分なことが思われてならなかった」「この機会に私なりに森澄雄の独自の俳句観(まさに彼の俳句観が見えてきてはっきりこう言えると確信しているわけだが)をここに書きとめておきたいと思う」「こうした俳句観を固めた俳人は、私と同時代の者のなかでもユニークだと思う」と、たっぷりすぎるほどの前置きをおいたあと、彼の本質「それは「近世文人意識」への傾倒」なのだと言った。(「俳句」平成22年12月号特集「森澄雄の生涯と仕事」)

澄雄にとって(兜太にとって)「近世文人意識」がなんだったかと言えば、それは要するにアンチ「近代文学」ということだろう。それはじつはアンチ「楸邨」なのだという診立ても、周囲にはあるていど共有されていたようだ。しかし『雪櫟』『花眼』から『浮鷗』『鯉素』『游方』への飛躍は、そのことによって矮小化できない。

澄雄は、近代文学的な個の意識の否定、近代俳句的な写生の方法の否定によって、新しい方法にたどりついた。

その試みは中断されたが、一度上がった番付は下がらないという俳壇的事情によって、その盛名は維持され、作家の長寿によって、過大評価と言わざるを得ない部分がかさを増していった。

しかし、たとえば、飯田龍太を最良の作家と考える俳句観から、森澄雄のもっともオリジナルな部分は、評価のしようがない。その基準が虚子でも、楸邨でも、狩行でも同じことだ(あ、たとえば橋閒石は、澄雄を、本人以上に理解していたかもしれないけれど)。

澄雄の死後の評価が、生前のそれに比してさびしく見えるのは、そのせいだと思う。

赤瀬川原平という現代美術作家であり文章家でもあった人について、弟子筋といってよさそうな糸井重里が、まさに「ゲンペイさんは生きていてナンボ」と書いたことがあって(もちろんまだ赤瀬川氏は生きていた)、なんて酷薄な言い方なんだと驚いたことがあった。

けれど、生きて書き続けて、あるエコール(流派)を作っていないと、存在意義が分からないという作家のありようは、たしかにある。

さっき、本人の信用と言説にうながされて「空白」が埋められるということを書いたけれど、つまり、森澄雄の句のいくばくかは、森澄雄の「署名」あるいは存在込みで作品であったのかもしれない。

そのことは、彼の最もわかりにくい句に対する導入にもなり、また、その難解さを覆い隠したとも思う。



田中裕明や波多野爽波の現在の高評価は、平成俳句が裕明、爽波らの試行をとりこんで、いわばその延長線上に可能性が試されていることによる。

同様に、森澄雄は「一九九〇年代以降の俳句シーンに最大の影響を及ぼした」わけだけれど、今となっては、彼の進んだ方向は、進化のどん詰まりだったのだろうか。

そうとも言い切れまい。

たとえば、写生の方法をとる宇佐美魚目や飴山實といった作家との影響関係はどうか。岡井省二が精神性や境地の方法論を引き継いだ作品の検討は、あるいは朦朧体ということでいえば、田中裕明に澄雄はどう継承されたか。村上鞆彦や生駒大祐は、その遺伝子を受け継いでいないか。

森澄雄という作家の「食べどころ」は、けっこう残されているのではないかと、思ったことであった。












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