『ただならぬぽ』攻略3
私はフライングマン。あなたの力になる。そのために生まれてきた
柳本々々
元気だろうか。
そろそろ句集への読みの態度の話を終えて、句集の具体的な読みの話に入っていこうと思う。
前回、
なにもない雪のみなみへつれてゆく 田島健一
の句で文章を終えたが、実はこの句は句集『ただならぬぽ』の帯文に大きく載っている句で、だからこの句集を読む際の読みのベクトルになっている。帯文にはこの句の下に(「あとがき」からの抜粋なのだけれど)こんなことも書かれている。
あらゆる人のはじまりであることの困難さの代わりに。句集の帯文というのは句集を読む際に非常に大切だ。それはその句集を読むための枠組みになるからである。だから句集を読むためにはまずページを開くことから始めるのではなく、意外なことに、ページを閉じることから始まる。カバーの質感、色、フォント、装画、帯文、タイトル、そういった一見なんでもないものがその句集をこれから読むための枠組みとして用意されているのだ(そこらへんはジェラール・ジュネットや紅野謙介さんの本が詳しい)。
だから、句集だけでなく、この本を読みなさい、と課題を出されたときに、読んでいるうちにさまよいそうになったら、悟りをひらいた僧のように、本を閉じて、カバーを、表紙を、帯文をみよう。そこにその本を読むための〈答え〉がある。
ところで、田島句集の帯文からわかることはなんだろうか。ふたつも手がかりがある。
「なにもない」句と、「人のはじまり」になることが難しかったことが書かれている。しかも「あらゆる人のはじまり」になろうとしていた、というアダムとイヴの日記にしか見られないような驚くべき記述がここにはある(俳句っていったいなんだ!?)。
無と始まり。つまりこの句集はこれから世界の根幹(なにもない場所/あらゆる人のはじまり)を語る用意があるということを読みの枠組みとして帯文で語っているのだ。
俳句を通して、「根の研究」を試みること。
根の研究あかるくて見えにくい蝶 田島健一
この句集はこれから読者をたびたび世界の〈なにもない〉根源的な場所に引き込み、読者を〈あらゆる人のはじまり〉にさせようと試みるだろう。それは、ただならない事態だ。世界の現象学的還元になるからだ(この現象学的還元は第1回・2回で書いたことと通底している。私はこれまでずっとこの現象学的還元の話を実はしてきた)。
現象学的還元。それはたとえば眼の前にコップがあったときに、「コップがある」の「コップ」を問うのではなく「ある」ということそのものを問うということだ。「ある」という現象しているその仕方そのものを問いかけること。「ある」ってなんなの? と。
これはちょっと考えてみるとわかるけれど、けっこう危機的なことだ。「コップ」という存在物ではなく、「ある」という存在そのものを問いかけてしまった場合、世界が崩壊し、世界がなくなる危険もあるからだ。存在を問いかけるということはそういうことだ。だって友達や恋人からとつぜん「あなたってなんでここにいるの?」って言われたらこわいですよね。えっ、そもそも俺どうしてここにいるんだろって。けれども。
菜の花はこのまま出来事になるよ 田島健一
田島句集は世界の基盤を問いかけていく。ひとの「ある」や「いる」や「なる」の出来事の成立する基盤そのものをかんがえていく。
ひとは出来事にあったとき「出来事だなあ」とは思わない。花が咲いているなあ、好きなひとがこっちにくるなあ、花火がうちあがったなあ、と思うだけだ。ところが田島句集ではそれが出来事になるかどうかを〈いちいち〉確かめている。この句集の語り手は出来事にであったとき、「出来事だなあ」と〈わざわざ〉考える語り手なのだ。これは「このまま出来事になるよ」、これは「このままでは出来事にならないよ」ってね。
でも実はわたしは誰しもが人生のそのときどきで出来事検査委員になることもあれば、世界の現象学的還元学者になることだってあるのだと考えている。
たとえば失恋や失職なんかがそうだろう。世界のすべてがどんどんぼろぼろに、ずたぼろになっていく。ものを食べる、ふとんにもぐる、眼をひらいて起きる、ごみをごみの日に起きて捨てにいく、食べたいものもないのに冷蔵庫をひらく、みたい番組もないのにテレビをつける、つめたい服を着る、行ったことのない場所の天気予報をきく、なにかを失ったときなんだかすべてが〈なまなましい出来事〉として感じられはしないだろうか。今まではありふれた、とるにたらない出来事未満だったことが、決定的なものを失うことで、いちいち心に刺さるような出来事以上として不気味に〈いきいき〉してくる。ひとつひとつがあまりに〈出来事出来事〉していて、やりすごせない。こんな世界にわたしはいままでいきていたのか! と、おもう。よくいきてこられた! と。
失ったわたしは、出来事の点検者になるのだ。これは出来事だ、これは出来事なんだよなあ、って。
そういう人生の経験って、思いがけなく、やってくることがあるんじゃないか。いきていると。
じぶんじしんが紙のようにくしゃくしゃになってしまい、世界がやけになまなましく感じられること。
兎の眼うつくし紙のような自我 田島健一
わたしはひとのリアルな経験の根っこにはそういうものがある気がしている。そしてその「根の研究」を田島句集はしているんだと。根の研究者、田島健一。
わたしたちは失っても失ってもなにかを〈経験〉せざるを得ない。
でも、それはなぜなんだろう。どうしてそこまでして《出来事》はやってくるんだろう。
世界がぜんぶ紙のようにくしゃくしゃになったってわたしたちはそれを「世界」として〈経験〉し、まだ、生きている。
なんでなの。
紙で創る世界海月の王も紙 田島健一
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