2017-07-09

『ただならぬぽ』攻略6 状況は少しシリアスになってきました。それにはユーもジャスト関係しています 柳本々々

『ただならぬぽ』攻略6
状況は少しシリアスになってきました。それにはユーもジャスト関係しています

柳本々々


  息災やまなこ大事に螢狩り  田島健一

かつて、あなたの眼を大事にしてね、と好きなひとに手紙を書いたことがある。

前回は、眼は傷つく、でも傷ついた眼はそのおかげでいろんなものを見ることができるという話をしたのだが、そもそも〈俳句と傷〉ってテーマとして成立するのだろうか。

たとえばこんな話を私はよく聞く。俳句をやっている人間は自殺者が少ないと。なんでだろう。言われてみるとたしかにそんな気もする。実際どうなのかはともかくとして、そういう言説が俳句においては成立してしまいそうなのが気になる。意味を込めない文芸だからだろうか。意味を捨てられる、わたしを捨ててしまえる文学だからだろうか。しにたいわたしをすてられる。

たとえばベケットの『ゴドーを待ちながら』で永遠にやって来ないゴドーを待っている浮浪者風の二人が、もし俳句詠みだったら、あの物語は変わるだろうか。ゴドーを待たなくてもよいと、あの二人は、思えるのではないだろうか。わたしたちのゴドーはわたしたちのゴドーではないんだと、もう、おもえるから。ゴドーを、もう、捨てていい、って。

  流氷動画わたしの言葉ではないの  
田島健一

こんな問いを提出してみたい。この語り手は〈傷ついているのかどうか〉。「流氷動画」は「わたしの言葉」ではなかった。「わたしの言葉ではない」から「わたしの言葉ではないの」と言っている。でも、そもそも、俳句とは「わたしの言葉ではない」ことから始まっているのではないのか。なぜそんなあたりまえのことを今さら俳句にしようとしたのか。それとも、そのことに〈あらためて〉《気づいた》がために、《傷ついている》のか。まるで綾波レイが詠んだ句のようじゃないかとさえ、私は思う。わたしに代わりはいくらでもいるの。だから、わたしの言葉ではないの。傷だらけの少女的二次元的言説。

〈わたしの言葉ではないの〉という傷。でも、〈わたしの傷かもしれないの〉という言葉。

たとえば思いつくままに〈俳句と傷〉をめぐる句をあげてみよう。ほんとうに思いつくままに。ちいさな俳句=傷ミニアンソロジーを試行してみよう。

  長き夜の外から鍵のかかる部屋  
喪字男

どうして語り手は監禁されているのか? 精神病院なのか? 「外から」ということは「内に」閉じこめられている? これからさらに傷つかねばならないのか。

  絆創膏外す大きな春の夢  
中山奈々

絆創膏を外すということはすでに・もう傷ついていたことになる。どんな傷だったのか。「大きな春の夢」というくらい〈大きな傷〉だったのか。

  はたらくのこはくて泣いた夏帽子  
中村安伸

なんではたらくことが泣くほどこわかったのか。労働に対するトラウマ=心的外傷があるのか。「働く」ではなく「はたらく」とするくらいまだ直視できない傷なのか。

  見てはならない冬の虹見なくては  
岡村知昭

なんで虹を見てはならないのか。見るとどうなるのか。トラウマなのか。しかしどうして内面の外部=トラウマにそれでも触れようとするのか。これからあなたは傷つこうとしているのか。

  別のかたちだけど生きてゐますから  
小津夜景

じゃあほんとうはどう生きる予定だったのか。「別のかたち」でなければほんとうのかたちはどうだったのか。なぜ今さらそんなことを相手に言おうとするのか。ぬぐいされない傷なのか。でもそれを聞いたら〈わたし〉も〈あなた〉も傷つくような気がする

  屠蘇散や夫は他人なので好き  
池田澄子

「好き」と発話してしまった場合、「好きでなくなる」場合もあるし、「嫌い」と相手からいわれる場合もでてくるだろう。そのとき、傷が発生する。「好き」という言説は傷と結びつく。傷を用意する。

  コンビニのおでんが好きで星きれい  
神野紗希

あなたは好きかもしれないが、わたしはコンビニのおでんが嫌いだ、というひとも出てくるだろう(わたしはコンビニのおでんが好きだが、階層差もあるだろう。階層的傷もここにはあるだろう)。そのとき「好き」は傷をひきうけるクッションになる。「好き」と、ひとがいうとき、ひとは傷つく準備をすることになる。だから、「好き」といわないまま、暮らしていくひともいる。「好き」といいたくないから、たぶん、俳句を選んだひとだっている。でも俳句はときどき「好き」という、なんでだろう。なんでですか。

句だけでなく、たとえば俳句の周辺をうろうろしながら傷について考えることもできる。自分からうろうろしてみよう。

たとえば佐藤文香さんの句集タイトル『君に目があり見開かれ』。この「きみ」が「きず」だったらどうだろう。それはそれで〈しっくり〉こないだろうか。

傷に目があり見開かれ。傷を引き受ける準備。そしてさらに傷口をひろげるかもしれない準備。

  広島や卵食ふ時口ひらく  
西東三鬼

どうしてこの句に「傷」は書かれていないのに、傷口〈しか〉見えないのだろう。

たとえば外山一機さんの俳句評論。なぜ外山さんは〈僕〉や〈僕たち〉という主語を使うのだろう。さきほどの「好き」もそうだが、「僕/僕たち」は「私/私たち」よりも主観が強くなるぶん、ぐっと〈傷つきやすくなる〉。「私はあなたが好きだ」と「僕はあなたが好きだ」とどっちがインパクトが強いだろうか。

しかしそれでも外山さんはその主語をあえて選んでいる。俳句を通して傷つく主体をたちあげるように。あえて傷ついた主体をさらして、俳句そのものの傷を明るみにだすように。俳句は、傷を、隠すのか。

俳句マスコット=俳句キャラクターでかんがえることもできるだろう。たとえば関悦史さんと行動=同行を共にしている一つ目のオリビア。介護用枕に一つ目が貼りつけられてある。岡本太郎デザインの宇宙人であるパイラ人にも似ている。目玉の親父やオディロン・ルドンの一つ目も想起させる。ある人にとっては萌える対象である単眼少女を思い出してもいい。

一つ目とはなにか。妖怪の一つ目小僧は民俗学的に言えば、片方の目が失明した(傷ついた)人間であり、その傷によって聖性を得たものである。以前話したように、傷ついた目は次元をかくらんさせるが、関さんがそうした〈一つ目〉のマスコットを同行させているのは二次元と三次元を往還する関さんの俳句を思い出せば興味深いことのように思われる(関悦史さんの俳句には、ドストエフスキーをマンガで読んでいるような次元の眩暈としての快楽があるように思う)。

〈俳句と傷〉について思い出すきっかけとなったのは田島健一さんの句集だったので、田島さんの句集から〈傷〉をめぐる句をあげてみよう。

  ひとつ足りないところが無限雛祭  
田島健一

足りないと無限になる。傷つくと殖える。

  失えば皆さくら待てるだけ待て  
田島健一

失うこと。失うことが「さくら」であること。失うことは「花」である。

  筆談の釣堀あかるくなってくる  
田島健一

「筆談」=言葉が去勢されると「あかるくなってくる」。ことばが傷つくことは、あかるいことだ。

  光るうどんの途中を生きていて涼し  
田島健一

途中という去勢の在り方。完遂でも到達でもなく。それが「涼しい」。

  かまいたち京都にまぼろしを殖やす  
田島健一

かまいたちという風の傷がまぼろしを殖やす。

そしてもういちど。

  流氷動画わたしの言葉ではないの  
田島健一

俳句の底の底の底の底の底のほうに降りていったときに、「わたしの言葉ではないの」という決定的な、ふだんは抑圧している〈俳句の傷〉がある。ところがその傷は抑圧しても抑圧しても〈症状〉として回帰してしまう。症状:ハイク、として。

田島健一にとって俳句とは〈症候的〉なものであるのでもないか。俳句の傷をかんがえろ、と。

田島句集には、傷ついたひとびとが、いる。

  豆撒いて職務へもどりきて無言  
田島健一
  かなしい絵本黙って梨をむいている 
 〃
  枇杷かじりいる真面目さが美しさ  
〃 
  いんげんまめ家に知らない人がいる 
 〃
  秋や日常泣き叫ぶ子へ誰も何も  

  蜜豆とあんみつ暗いひとは誰 
 〃

「暗いひとは誰」と言われてわたしは、今、手をあげた。あなたは、どうだろうか。やっぱりあげましたか。

ところで、私とは症状のことではないだろうか。と言ったのは私でもなかった。俳句が、そう言ったのだ。

  私とは症状である竹の秋  
阿部完市

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