【句集を読む】
〈フラワーズ‐カンフー‐すること〉あるいはアマチュアとして書くこと(前篇)
小津夜景『フラワーズ・カンフー』
福田若之
崩壊の可能性以外のものをどう愛せばよいというのだろう。不可能な全体以外のものを。
――ジャック・デリダ
戸口のカーテンの後ろに立つ子供は、自身が風に揺らめく白いものになり、幽霊になる。
――ヴァルター・ベンヤミン
小津夜景『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂、2016年)を読み返すことは、僕にとっては、そのつど繰り返し、それを語りそこなうことでありつづけてきた。僕はまたしても語りそこなうだろう。それでも、僕は、やはり戸を引いて中に入らずにはいられない。
返り血咲く講堂の戸や誰が触れむ 小津夜景
句集と同タイトルの連作「フラワーズ・カンフー」から引いた。この一句が、《馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ》(水原秋櫻子)のもじりであること、すなわち、それに手をつけたものであることはすぐに知れる。しかし、書き手のそうした手つきは決してあたりまえのものではない。
句集と同タイトルの連作「フラワーズ・カンフー」から引いた。この一句が、《馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ》(水原秋櫻子)のもじりであること、すなわち、それに手をつけたものであることはすぐに知れる。しかし、書き手のそうした手つきは決してあたりまえのものではない。
ためしに、『フラワーズ・カンフー』の書き手の手つきを、同じ句に手をつけた別の書き手のそれと比べてみよう。
葦火(あしび)幸(さ)く
坤道(こんどう)の徒(と)
俄(にわ)か
狂(ふ)れぬ 外山一機
坤道(こんどう)の徒(と)
俄(にわ)か
狂(ふ)れぬ 外山一機
この一句は、秋櫻子の句を詞書として、この句の書き手が編んだ電子版の第一句集である『平成』の、「俳人としての私」という一章に収められている。
さて、『フラワーズ・カンフー』の書き手は、別のところで、まさしくこの『平成』を読みながら、はじめに次のことを確認していた。
外山一機とは「パフォーマンスとしての俳句」を公言し、俳句とは創作であると同時にひとつの出来事であるという認識の下、その出来事を生み出すための方法を前面に押し出しつつ俳句というジャンルへの揺さぶりを試みてきた実作者である。
「俳人としての私」における秋櫻子の句の参照は、したがって、ここではパフォーマンスとしてなされたものと理解される。そもそも、参照ということは、そのつどパフォーマティヴにしかなされえないだろう。その意味では、『フラワーズ・カンフー』の書き手もまたパフォーマンスしている。関悦史は、「意味の変容の変容の愉悦――小津夜景『フラワーズ・カンフー』」において、『フラワーズ・カンフー』を「〔……〕本書は説明的(コンスタティヴ)にではなく、まさに行為遂行的(パフォーマティヴ)に書かれている〔……〕」と評している。コンスタティヴであることとパフォーマティヴであることとは必ずしも両立しないわけではない――それどころか、突き詰めると両者の明確な分類は不可能にさえ思われる――という点には注意が必要だが、いずれにせよ、『フラワーズ・カンフー』の書き手がここでなんらかのパフォーマンスをしていることはたしかである。
ただし、『平成』の書き手と『フラワーズ・カンフー』の書き手のパフォーマンスは、その質が大きく異なっているように思われる。いずれ、僕は、どうにかしてこれら二つの質を命名することが必要になるだろう。そのためには、回り道に思われるかもしれないが、前掲の「よみ人しらずの閧を求めて」の「俳人としての私」についての言及を参照するために、いますこし時を失わなければならない。
ただし、『平成』の書き手と『フラワーズ・カンフー』の書き手のパフォーマンスは、その質が大きく異なっているように思われる。いずれ、僕は、どうにかしてこれら二つの質を命名することが必要になるだろう。そのためには、回り道に思われるかもしれないが、前掲の「よみ人しらずの閧を求めて」の「俳人としての私」についての言及を参照するために、いますこし時を失わなければならない。
元来、ことばという媒質は、不協音的に触知しようとすると一瞬で他界に即いてしまう安易を起こしがちなものだが、「俳人としての私」ではその演出がいかに死の香りに包まれていようとも、その種の馥郁さに寄生する作家にありがちな「不可知に遭遇する主体」が句中に居合わせておらず、また言語を生命のように取り扱うような情念もない。さらに言えば、見えないものに付与される肉感や、技巧という所作から巧まずして立ちのぼるはずの官能も希薄である。(前掲、「よみ人しらずの閧を求めて」)
情念の不在、そしてまた、肉感や官能の希薄さ。このことから、「俳人としての私」の試みは次のとおり理解される。
上述の特色を辿ってゆくと、外山の試みは言霊へのナイーヴな傾倒に基づくものではなく、あくまでも①本句を音表象(無意識)の素へと還元し、②その素を語表象(前意識)のコードに従わせつつ、③本句を脱コード化するといった一連の運動、別の言い方をすれば言葉のピクセル化ならぬグラセル化(gram=字/cell=細胞)を介して現実の見え方に手を加えるという、情念を排したところの硬質な作業であることが見えてくる。(同前)
「情念を排したところの硬質な作業」。これは、ひとびとが、一般にプロフェッショナルの仕事として理解するところのそれである。ところで、それは「俳人としての私」という題目を掲げながら上演されたパフォーマンスであった。プロフェッショナルという語は、ラテン語で「公に認める」、「(信仰などを)告白する」という意味の動詞profiteriの完了分詞professusに由来し、信仰を告白して職業に就いた「聖職者」を意味したという。つまり、プロフェッショナルということは、肩書きや誓いに関わっている。
「俳人としての私」はその題目によって、自ら「俳人」として人前に立つことを誓っている。「坤道の徒」という言葉は、一方ではそうした宗教的な「私」の態度を暗示的に映し出しながら、他方では、その客体化によって「私」を突然の発狂から遠ざけ、「私」をすくなくとも見かけ上は理性的なまなざしの主体として立ちあげている。それは、あたかも、鏡とカメラ・ルシダを同時に駆使しながら描かれた奇妙な自画像のようである。そこには、鏡と顔とのあいだを部分的にさえぎるカメラ・ルシダの装置さえもが精密に描き取られるだろう。そのようにして描かれる自画像は、極度に理性的であるがゆえに、むしろ狂気をはらむだろう。『平成』の書き手の身ぶりは、こうした意味において、プロフェッショナルのそれであると理解できる。それは、情念なしの、肉感や官能の希薄な職人的な仕事として演出されているのである。
「俳人としての私」はその題目によって、自ら「俳人」として人前に立つことを誓っている。「坤道の徒」という言葉は、一方ではそうした宗教的な「私」の態度を暗示的に映し出しながら、他方では、その客体化によって「私」を突然の発狂から遠ざけ、「私」をすくなくとも見かけ上は理性的なまなざしの主体として立ちあげている。それは、あたかも、鏡とカメラ・ルシダを同時に駆使しながら描かれた奇妙な自画像のようである。そこには、鏡と顔とのあいだを部分的にさえぎるカメラ・ルシダの装置さえもが精密に描き取られるだろう。そのようにして描かれる自画像は、極度に理性的であるがゆえに、むしろ狂気をはらむだろう。『平成』の書き手の身ぶりは、こうした意味において、プロフェッショナルのそれであると理解できる。それは、情念なしの、肉感や官能の希薄な職人的な仕事として演出されているのである。
他方、『フラワーズ・カンフー』の書き手の身振りは、まさしく情念と官能に支えられている。「俳人としての私」のパフォーマンスにおいて秋櫻子の句を参照することは、歴史的にみて、ある程度その必要を感じさせないことはない。だが、たとえば「セーラー服を血まみれにして戦う学園百合バトルコメディ」(石原ユキオ)として読まれる連作「フラワーズ・カンフー」において、この参照は必然性のなさによって際立っている。むしろ、たとえば《仁★義★礼★智★信★厳★勇★怪鳥音》において松田隆智原作、藤原芳秀作画の漫画『拳児』やブルース・リーおよび彼にまつわるもろもろの言説を参照することのほうにこそ、そうした必然性があるといえよう。だが、そうした参照は、いずれにせよ実に遊戯的なものであって、これを何が支えているのかといえば、それは先行するテクストに対する愛であろう。
ところで、ロラン・バルトは、『彼自身によるロラン・バルト』において、「アマチュア」の語源となったラテン語、«amator»の意味合いに言及しつつ、次のとおり書いていた――「〈アマチュア〉は自らの享楽を引き延ばす(amator:愛しそしてなおも愛する者qui aime et aime encore)」。「なおも愛するaimer encore」――この二語は、『フラワーズ・カンフー』の書き手が、そのあとがきにおいて次のとおり引用するバルトの別の言葉にも現れているのである。
「出アバラヤ記」が攝津幸彦賞の準賞となったのを機に俳句を始めてから途方もなく長い二年半が経過した。この間にしばしば思い出したのは「前衛であるとは死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるとは死んだものをまだ愛しているということだ」といったロラン・バルトの言葉である。
『テル・ケル』誌の1971年秋号に掲載されたインタビュー記事のこの一節を、あえて今一度僕なりに訳し直すなら、「前衛であるとは、死んだものが何であるかを知っていることであって、後衛であるとは、それをなおも愛することl'aimer encoreです」となる。だから、後衛であるとは、死んだもののアマチュアであることにほかならないだろう。
『フラワーズ・カンフー』の書き手は、 そのあとがきに、「文字に触れるときの私は、思い出に耽りつついまだ知らない土地を旅している。それは散乱する〈記憶〉の中から〈非‐記憶〉ばかりをよりすぐる、あたかも後衛と前衛とを同時に試みるかのごとき奇妙なフィールドワークだ」と書く。『フラワーズ・カンフー』のこうした身ぶりは、先の対談から引用したバルトの発言の直前の、「それゆえ私は私自身の歴史的命題(つねにそれについて自問しなければなりません)は前衛の後衛にいることだと言うことができます」という一節とも深く結びつくものであるといえる。それはもう死んでいると知りながら、それをなおも愛すること。柳本々々は、『フラワーズ・カンフー』のあとがきに語られている身ぶりは「再読」そのものであるとしたうえで、「再読」とはどういうことかを次のとおり説明している。
『フラワーズ・カンフー』の書き手は、 そのあとがきに、「文字に触れるときの私は、思い出に耽りつついまだ知らない土地を旅している。それは散乱する〈記憶〉の中から〈非‐記憶〉ばかりをよりすぐる、あたかも後衛と前衛とを同時に試みるかのごとき奇妙なフィールドワークだ」と書く。『フラワーズ・カンフー』のこうした身ぶりは、先の対談から引用したバルトの発言の直前の、「それゆえ私は私自身の歴史的命題(つねにそれについて自問しなければなりません)は前衛の後衛にいることだと言うことができます」という一節とも深く結びつくものであるといえる。それはもう死んでいると知りながら、それをなおも愛すること。柳本々々は、『フラワーズ・カンフー』のあとがきに語られている身ぶりは「再読」そのものであるとしたうえで、「再読」とはどういうことかを次のとおり説明している。
再読とは、すでに知ったもの(記憶)のなかに、知らなかったもの(非-記憶)を〈発見〉する行為である。その〈発見〉を「対話」と呼んでもいい。わたしには大好きな本があります。この本です。もう一度わたしの大好きなこの本を読んだら、わたしはこの本のことをこんなに知っていたはずなのに、この本からこんなに知らなかったものが出てきましたの対話。
(柳本々々「あとがきの冒険 第14回 忘れた・忘れる・忘れるだろう――小津夜景『フラワーズ・カンフー』のあとがき」)
「わたしには大好きな本があります。この本です。もう一度わたしの大好きなこの本を読んだら、わたしはこの本のことをこんなに知っていたはずなのに、この本からこんなに知らなかったものが出てきました」、これが記憶にないほど古いものに対する愛の告白でないとしたら、いったい何であろうか。実際、失われたものへの愛は、この句集の全体を通じて随所に感じられる。直接には感じられないところにさえ、それがきっとあったに違いないと感じられるほどにまで――《ミモザちる千年人間(ミレネリアン)のなきがらへ》、《思ひ寝を弔うバニラアイスかな》、《いつまでも屍体だりんと鳴く虫だ》、《今にして語るゆかしき巣箱かな》、《いまはなき虹の画像のおぼえがき》、《かつてこの入江に虹といふ軋み》、《オマージュがイマージュとなり鳥となり人類の手を離れていつた》、《煮こごりに夜の音楽のなごりかな》、そして、《くらげみな廃墟とならむ夢のあと》。
冒頭の句に戻ろう。『フラワーズ・カンフー』の書き手が秋櫻子の句を参照する際の、一見すると素朴に趣味的なものとも思われる手つきは、後衛であること、すなわち、死んだもののアマチュアであることの身ぶりとして理解される。それは、『平成』の書き手の身ぶり、すなわち、プロフェッショナルのそれと対置されるものである。したがって、プロフェッショナルとアマチュアという二つの語の対立は、ここでも見かけ上は維持されることになる。ただし、その対立構造は、ここではもはや通常のそれとは全く異なるものだ。もしかすると、ここでの両者の対立のありようは、いわゆる「プロレス」と「アマレス」の対比に似たところがあるかもしれない。すなわち、プロフェッショナルの振る舞いがしばしばあらかじめ綿密に計算された見世物であるのに対し、むしろアマチュアのそれのほうが演劇的なところのない真剣勝負なのである(もちろん、見世物には見世物の真剣さとすばらしさがあるのだが)。
さきほど『フラワーズ・カンフー』における先行テクストの参照は遊戯的であると述べたが、遊戯はもちろん同時に真剣勝負でもありうる。もし『死亡遊戯』がフィクションではなかったとしたら……と、遊戯的かつ真剣に想像すること。あるいは、こうした遊戯と闘技の両立は、もしかすると、中国の武術よりはむしろスペインの闘牛を思わせるものかもしれない。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』新版の語り手は、「淫らな獣たち」の章で次のとおり述べている。
萩原朔太郎は、室生犀星の俳句について、それがあくまでも「文人の余技」にとどまるものであることを断ったうえで、次のとおり書いていた。
たしかに、外山一機は、「俳人としての私」の収められた『平成』と巻民代名義で書かれた『御遊戯』とをあっさりと分けてみせる。そのようにして、アマチュア的な『御遊戯』は、プロフェッショナルとしての仕事の埒外に置かれたのだ。おそらく、こうした分別こそが、まさしくプロフェッショナルにふさわしい身ぶりなのだろう。だが、ひとは、そんなふうに、自らの仕事をかんたんに本職と余技とに分けることができるものだろうか。いや、もし分けることができたとしても、そうした徹頭徹尾「余技」化された余技のうちに、快楽などという言葉ではもはや指し示すことのできない、あえて享楽と呼ぶに値するようなものがほんとうにありうるのだろうか(いや、僕は、こう書くからといって、決してプロフェッショナルの身ぶりをアマチュアのそれに比べて劣ることであるとか、ましてや小津夜景は外山一機より優れた書き手であるとか主張したいわけではないのだ。いったいどうして優劣を決める必要があるだろう。プロフェッショナルとして書くことをプロフェッショナルの側からプロフェッショナルの身ぶりで擁護することもまた、決して不可能なことではないはずだ)。
いずれにせよ、『フラワーズ・カンフー』は、まさしく趣味的な享楽の肉体化と呼ぶに値するもののために、思想と情熱を傾注するのである。ただし、「思想」なり「情熱」なり「傾注」なりという語が通常喚起する重くれた雰囲気とは無縁のたたずまいにおいて。常套的に言えば、蝶のように舞い蜂のように刺す、そうした軽やかさにおいて。このことは、小津夜景という書き手の肉体性ともかかわっている。
冒頭の句に戻ろう。『フラワーズ・カンフー』の書き手が秋櫻子の句を参照する際の、一見すると素朴に趣味的なものとも思われる手つきは、後衛であること、すなわち、死んだもののアマチュアであることの身ぶりとして理解される。それは、『平成』の書き手の身ぶり、すなわち、プロフェッショナルのそれと対置されるものである。したがって、プロフェッショナルとアマチュアという二つの語の対立は、ここでも見かけ上は維持されることになる。ただし、その対立構造は、ここではもはや通常のそれとは全く異なるものだ。もしかすると、ここでの両者の対立のありようは、いわゆる「プロレス」と「アマレス」の対比に似たところがあるかもしれない。すなわち、プロフェッショナルの振る舞いがしばしばあらかじめ綿密に計算された見世物であるのに対し、むしろアマチュアのそれのほうが演劇的なところのない真剣勝負なのである(もちろん、見世物には見世物の真剣さとすばらしさがあるのだが)。
さきほど『フラワーズ・カンフー』における先行テクストの参照は遊戯的であると述べたが、遊戯はもちろん同時に真剣勝負でもありうる。もし『死亡遊戯』がフィクションではなかったとしたら……と、遊戯的かつ真剣に想像すること。あるいは、こうした遊戯と闘技の両立は、もしかすると、中国の武術よりはむしろスペインの闘牛を思わせるものかもしれない。ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』新版の語り手は、「淫らな獣たち」の章で次のとおり述べている。
ただし、言っておかねばならないが、休みなく果てしなく、闘牛士の身体の輪郭すれすれのところで、恐るべき獣がケープを潜りまた潜りぬけるものだから、ひとは愛の身体的な行為に特有の全体的でかつ反復されるあの噴出の感情を覚えるのだ。死と隣りあわせのありようがそこでは同じ仕方で感じられるのである。愛の行為は闘牛に似ている。それは、死と隣りあわせのところに身を置きながらの、真剣な遊戯なのだ。アマチュアとしての遊戯とは、そうしたものなのである。
(Georges Bataille, Histoire de l'œil)
萩原朔太郎は、室生犀星の俳句について、それがあくまでも「文人の余技」にとどまるものであることを断ったうえで、次のとおり書いていた。
しかしながら彼の場合は、芥川氏等の場合とちがつて、余技が単なる余技に止まらず、余技そのものの中に往々彼の作物を躍如とさせ、生きた詩人の肉体を感じさせるものがある。すべて人はその第一義的な仕事に於て、思想と情熱の全意力を傾注し、第二義的な仕事即ち余技に於ては、単に趣味性のみを抽象的に遊離して享楽する。室生氏の場合も亦これと同じく、彼の句作の態度には、趣味性の遊離した享楽(ヂレツタンチズム)が多分にある。だがそれにも拘らず、彼はその趣味性の享楽を生活化し、ヂレツタンチズムを肉体化することによつて、不思議な個性的芸術を創造するところの、日本茶道精神の奥義を知つてる。例へば彼が陶器骨董を愛玩する時、その趣味性の道楽が直ちに彼の文学となり、陶器骨董の触覚や嗅覚がそれ自ら彼の生きた肉体感覚となるのである。そして彼が石を集め、苔を植ゑて庭を造り楽しむ時、しばしばその自己流の道楽芸が専門の庭園師を嘆息させるほど、真にユニイクな芸術創作となるのである。趣味性の享楽を肉体化すること――たしかに、それこそは犀星と夜景に共通することがらであろう。それどころか、たとえば《鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな》(室生犀星)には失われたものへの愛をも見いだしうる。だが、朔太郎が「すべて人はその第一義的な仕事に於て、思想と情熱の全意力を傾注し、第二義的な仕事即ち余技に於ては、単に趣味性のみを抽象的に遊離して享楽する」と書くのはほんとうだろうか。
(萩原朔太郎「小説家の俳句――俳人としての芥川龍之介と室生犀星」)
たしかに、外山一機は、「俳人としての私」の収められた『平成』と巻民代名義で書かれた『御遊戯』とをあっさりと分けてみせる。そのようにして、アマチュア的な『御遊戯』は、プロフェッショナルとしての仕事の埒外に置かれたのだ。おそらく、こうした分別こそが、まさしくプロフェッショナルにふさわしい身ぶりなのだろう。だが、ひとは、そんなふうに、自らの仕事をかんたんに本職と余技とに分けることができるものだろうか。いや、もし分けることができたとしても、そうした徹頭徹尾「余技」化された余技のうちに、快楽などという言葉ではもはや指し示すことのできない、あえて享楽と呼ぶに値するようなものがほんとうにありうるのだろうか(いや、僕は、こう書くからといって、決してプロフェッショナルの身ぶりをアマチュアのそれに比べて劣ることであるとか、ましてや小津夜景は外山一機より優れた書き手であるとか主張したいわけではないのだ。いったいどうして優劣を決める必要があるだろう。プロフェッショナルとして書くことをプロフェッショナルの側からプロフェッショナルの身ぶりで擁護することもまた、決して不可能なことではないはずだ)。
いずれにせよ、『フラワーズ・カンフー』は、まさしく趣味的な享楽の肉体化と呼ぶに値するもののために、思想と情熱を傾注するのである。ただし、「思想」なり「情熱」なり「傾注」なりという語が通常喚起する重くれた雰囲気とは無縁のたたずまいにおいて。常套的に言えば、蝶のように舞い蜂のように刺す、そうした軽やかさにおいて。このことは、小津夜景という書き手の肉体性ともかかわっている。
ぬつ殺しあつて死合はせ委員会 小津夜景
この一句は、小津夜景「みみず・ぶっくす10 西瓜糖カンフーの日々」を初出としており、そこでは「「死合わせ委員会」は無知蒙昧「ヌンチャク少女ミサキ」に登場する語」という注が付されていた。これを手がかりに調べてみると、『ヌンチャク少女ミサキ』というのはかつて公開されていたウェブ小説のタイトルで、無知蒙昧というのはその作者の筆名であるということがわかった。しかしながら、このウェブ小説は、そのポータルサイトがすでに閉鎖されてしまっており、ウェブ上にはもはや断片的な情報しか残されていない。
「西瓜糖カンフーの日々」における注は、「死合わせ委員会」をただ「語」として提示するのみで、それが指し示すものが組織であるのかどうかさえ不明瞭なものにとどまっていた。おそらくは、この句の書き手もまた、すでに死に絶えた無知蒙昧「ヌンチャク少女ミサキ」のあとかたにしか触れることができずに、「死合わせ委員会」とは何であるのかをこの語から想像するしかなかったのだろう。ここでの想像において手がかりとなるのは、この「死合わせ」という当て字が、格闘技漫画などにおいて試合という語に「死合」という字を当てる場合のあることを連想させるということである。結果として、句に描きだされているのは、「しあはせ」が「死合はせ」とみなされる学校の、ほとんどサド的ともいえそうな狂気の制度のもとで展開される、「ぬつ殺しあ」うという暴力的で残酷で理不尽なありようである。それにもかかわらず、それを書く手つきがどこかあたたかい質感をもたずにいないのは、この句がまさしく死んだものへの愛に支えられていることと無関係ではないように思われる。
「西瓜糖カンフーの日々」における注は、「死合わせ委員会」をただ「語」として提示するのみで、それが指し示すものが組織であるのかどうかさえ不明瞭なものにとどまっていた。おそらくは、この句の書き手もまた、すでに死に絶えた無知蒙昧「ヌンチャク少女ミサキ」のあとかたにしか触れることができずに、「死合わせ委員会」とは何であるのかをこの語から想像するしかなかったのだろう。ここでの想像において手がかりとなるのは、この「死合わせ」という当て字が、格闘技漫画などにおいて試合という語に「死合」という字を当てる場合のあることを連想させるということである。結果として、句に描きだされているのは、「しあはせ」が「死合はせ」とみなされる学校の、ほとんどサド的ともいえそうな狂気の制度のもとで展開される、「ぬつ殺しあ」うという暴力的で残酷で理不尽なありようである。それにもかかわらず、それを書く手つきがどこかあたたかい質感をもたずにいないのは、この句がまさしく死んだものへの愛に支えられていることと無関係ではないように思われる。
これはいささか冗談のようなことだが、前衛であることと後衛であることとを再定義するバルトの言葉は、次のとおり続いていた――「私は小説的なものを愛していますが、小説が死んでいることも知っているのです」。『フラワーズ・カンフー』における「死合わせ委員会」とは何らかの小説的な対象であり、しかしながら、そのもとになった小説はすでに死んでいる。ここで「小説的な対象」というのは、たとえば、バルトが『記号の国』で次のとおり書いているところのものだ。
ところで、『フラワーズ・カンフー』には、その前身となったふたつの作品群がある(正確にはそれだけではないが、大部分はこのふたつに含まれているように見受けられる)。そのひとつは、攝津幸彦賞準賞を受賞した「出アバラヤ記」と『俳句新空間』での連載をあわせてPDFファイルにまとめた『THEATRUM MUNDI』(かつての配信ページには、現在その跡地のみが残っている)であり、もうひとつは、すでに言及した『ウラハイ』の連載、「みみず・ぶっくす」である。「世界劇場(theatrum mundiあるいはtheatrum obli)」と書物たち。それらは、いずれも「後衛」的な愛の対象物となる媒体である。フランセス・イエイツが述べているとおり、「人間の生涯の寓意的表象としての「世界劇場」は、記憶術の劇場の形であれ、寓意画の形であれ、あるいは修辞的に語られた講話の形であれ、ルネッサンス期に普及していたトポス(常套的主題)であった」(藤田実訳)。劇場と書物は、いずれも記憶の技術にかかわっている。記憶術において、それらは死んだものの抽斗である。そこでは死んだものが再演されるのだが、死んだものはもうそこにはない。『THEATRUM MUNDI』と「みみず・ぶっくす」――これらは自らの名において、次のことを告げていたのだ。これは廃墟である、すなわち、「わたくしは空き家である」、と。したがって、「後衛」たる書き手にとって、これらのテクストの主題はそこに立ち現れる「私の愛するもの」であったと考えられる。
だが、『フラワーズ・カンフー』の名乗りは、『THEATRUM MUNDI』や「みみず・ぶっくす」とはいささか異なっている。カンフーとは何か。極論すれば、それは身のこなしである。『THEATRUM MUNDI』と「みみず・ぶっくす」から『フラワーズ・カンフー』への移行は、「私の愛するもの」から「私の愛の身ぶり」への主題の移行だったのだ。書物の各部分では「私の愛するもの」について書かれることがあるにしても、全体としては「私の愛の身ぶり」の実演こそが主題となっている。実際、「出アバラヤ記」の大幅な組み換えは、そうした主題の移行と深くかかわっているように思われる。たとえば、その末尾の部分である「私はそこを離れ、それが思ひ出せない。そこが、それが、いつたいなにか思ひ出せない。まるで思ひ出がなかつた。古い思ひ出が。それでも私はセタールの音にいざなはれて、美しい故園に自分が舞ひ戻つたと信じてゐたのだから不思議だ」という独白のあとには、かつて《龍となり無の表情で浮いてこい》という一句が置かれていた。だが、この「私の愛するもの」としての一体の浮き人形は、いまやその場所を次の句に譲ったのである。
もし私が架空の民族を思い描きたいと望むなら、現実のどんな国々も私の幻想に巻き込んだりしないように、私はそれにでっちあげた名を与え、それを明白に小説的な対象として取り扱い、ひとつの新しいガラバーニュ国を建国することもできる(だがその場合には私が文学の記号に巻き込むことになるのはこの幻想そのものである)。私はまた、ささいな現実のことがらを表象したり分析したりする(西洋の言説の身ぶりのほとんどがこれである)などとどんな点においても言い張ることなしに、世界のどこか(かなたlà-bas)でまとまった数の描線=特徴traits(書画と言語学の用語だ)を採集し、それらの描線=特徴から一つの体系を恣意的に作り出すこともできる。この体系を、私はこう呼ぶだろう――日本、と。したがって、アンリ・ミショーの『幻想旅行記』における架空の国、グランド・ガラバーニュにあたるものとしての、『ヌンチャク少女ミサキ』における「死合わせ委員会」。そしてまた、『記号の国』にとっての描線=特徴のひとつにあたるものとしての、『フラワーズ・カンフー』にとっての「死合はせ委員会」。小説のない小説的なもの。バルトの『S/Z』のなかの「書きうるもの、それは小説のない小説的なもの、詩のない詩情、論考のない試論、文体のないエクリチュール、生産物のない生産、構造のない構造化である」という一節を、アマチュア的な遊戯の身ぶりで思い出しておこう。『フラワーズ・カンフー』において「死合わせ委員会」を小説的な対象として取り扱うことは、あたかもまだ存在しないものを書こうとするかのようにもはや存在しないものを書こうとするという、ひとつのパフォーマンスとしてなされているのではないだろうか。たしかに、もはや読むことのできない『ヌンチャク少女ミサキ』は、すくなくとも、そのあとかたを見るかぎり、おそらくバルトが「小説roman」としてイメージしている作品のありようとはまったく似ても似つかないものであったことが想像される。だが、『フラワーズ・カンフー』が、こうした他愛なくも思える言葉遊びを背景としながら、バルト的な後衛としての振る舞いを意識的に自らのものとしていたとしても、そう不思議なことではないだろう。それは、無知蒙昧による「しあわせ」から「死合わせ」への言葉のずらしをたまらずに愛してしまうありようとも、決して無縁ではないのだから。
(Roland Barthes, L'empire des signes. 太字は原文ではイタリック体)
ところで、『フラワーズ・カンフー』には、その前身となったふたつの作品群がある(正確にはそれだけではないが、大部分はこのふたつに含まれているように見受けられる)。そのひとつは、攝津幸彦賞準賞を受賞した「出アバラヤ記」と『俳句新空間』での連載をあわせてPDFファイルにまとめた『THEATRUM MUNDI』(かつての配信ページには、現在その跡地のみが残っている)であり、もうひとつは、すでに言及した『ウラハイ』の連載、「みみず・ぶっくす」である。「世界劇場(theatrum mundiあるいはtheatrum obli)」と書物たち。それらは、いずれも「後衛」的な愛の対象物となる媒体である。フランセス・イエイツが述べているとおり、「人間の生涯の寓意的表象としての「世界劇場」は、記憶術の劇場の形であれ、寓意画の形であれ、あるいは修辞的に語られた講話の形であれ、ルネッサンス期に普及していたトポス(常套的主題)であった」(藤田実訳)。劇場と書物は、いずれも記憶の技術にかかわっている。記憶術において、それらは死んだものの抽斗である。そこでは死んだものが再演されるのだが、死んだものはもうそこにはない。『THEATRUM MUNDI』と「みみず・ぶっくす」――これらは自らの名において、次のことを告げていたのだ。これは廃墟である、すなわち、「わたくしは空き家である」、と。したがって、「後衛」たる書き手にとって、これらのテクストの主題はそこに立ち現れる「私の愛するもの」であったと考えられる。
だが、『フラワーズ・カンフー』の名乗りは、『THEATRUM MUNDI』や「みみず・ぶっくす」とはいささか異なっている。カンフーとは何か。極論すれば、それは身のこなしである。『THEATRUM MUNDI』と「みみず・ぶっくす」から『フラワーズ・カンフー』への移行は、「私の愛するもの」から「私の愛の身ぶり」への主題の移行だったのだ。書物の各部分では「私の愛するもの」について書かれることがあるにしても、全体としては「私の愛の身ぶり」の実演こそが主題となっている。実際、「出アバラヤ記」の大幅な組み換えは、そうした主題の移行と深くかかわっているように思われる。たとえば、その末尾の部分である「私はそこを離れ、それが思ひ出せない。そこが、それが、いつたいなにか思ひ出せない。まるで思ひ出がなかつた。古い思ひ出が。それでも私はセタールの音にいざなはれて、美しい故園に自分が舞ひ戻つたと信じてゐたのだから不思議だ」という独白のあとには、かつて《龍となり無の表情で浮いてこい》という一句が置かれていた。だが、この「私の愛するもの」としての一体の浮き人形は、いまやその場所を次の句に譲ったのである。
語りそこなつたひとつの手をにぎる 同
竹岡一郎は、その「天蓋または皮膚――小津夜景『フラワーズ・カンフー』論」において、この句を評して、「恐らく言葉は永遠に事物を指し示す事は出来ないという、その語りそこなう現実への愛撫なのだ」としている。この句の身ぶりはたしかに愛を感じさせるものだ。「ひとはつねに愛するものについて語りそこなう」とは、バルトの遺稿となったスタンダール論のタイトルであった。スタンダールがその『恋愛論』の第14章に書いているところによれば、「愛の夢想は書きとめることができないのである」。語りそこなったひとつの手をにぎること――それは愛の身ぶりであり、したがって、アマチュアのパフォーマンスにほかならない。バルトは「スタンダールの愛するふたつのもの、〈音楽〉と〈イタリア〉があるのは、いわば、言語活動の外の場所なのです」と述べる。スタンダールは、〈イタリア〉が言語活動の埒外にあるがゆえに、この国のことをついにうまく語ることができない。だが、その愛は、のちに、『パルムの僧院』の冒頭の感嘆すべき文章において、小説的な嘘として、実を結ぶのである――「エクリチュール、それは何でしょうか。愛の想像的なものの非生産的な停滞を打ち破って、その出来事に象徴的な一般性を与えるひとつの力、ある長い通過儀礼のあとにきっと得られる成果です」。
「出アバラヤ記」のクライマックスにおいて、「私」は、夫と訪れた楽器屋で「セタールを弾く立派な演奏家」でもある「いつも気さくなイラン人の店員」に「何か、僕にイメージを伝へてください。その音を出してみませう」と言われ、李白の七言絶句、「春夜洛城聞笛」の英訳(Li Bo "Hearing Banboo Flute on a Spring Night in Luoyang")を見せる。春の夜に洛陽の町のどこかの家から笛を吹くのが聞こえてくる、そして、とりわけそのなかに「折楊柳」(李白の詩中では「折柳」。別れの曲であったとされる)の演奏を聴いたとき、「何人不起故園情(いったい誰が故郷を懐かしむ気持ちを起こさずにいられようか)」と感じ入る、という一篇だ。
つかのまの沈黙の後、その店員はLi Boの聞いたはるか昔の笛の音を弦に翻しはじめた。 長く、密に引きのばされる音色が、見えない空間をそつと傷つけるたび、その痕跡が私の耳に残された。私は目をとぢた。そして私の「故園old hometown」を歩かうとした。だがそこにいるのは私ではなく夫だつた。自らの「故園」から、音楽から、「私」は疎外される。夫によって。だが、夫はこのときまさしく「故園」のうちに、音楽のうちにいる。故郷、音楽、夫――これらはみな「私の愛するもの」として立ち現れている。ここで示唆されているのは、「私」がしきりに語っていたはずのあの「夫」は、じつは「私」の愛する夫そのものではないということなのだ。ここで、次の句が書かれる。
いまだ目を開かざるもの文字と虹 同
「故園」を歩こうとして、「私は目をとぢた」のだった。だが、「私」は目をとじることで、「故園」からは疎外されてしまう。その代わりに、「私」は文字や虹と同化する。虹が失われつつあるイマージュあるいは失われたもののイマージュとして読みうることは、「水、不意の再開」における、《いまはなき虹の画像のおぼえがき》と《かつてこの入江に虹といふ軋み》や、「出アバラヤ記」の《消えさうな虹に指紋を凝らしけり》を見ればあきらかだろう。西原天気は、「終わらない散歩――小津夜景『フラワーズ・カンフー』」において、「かようにところどころ虹が配されるのは、作者のサービス」としたうえで、このことを、「同時に、言うまでもなく、〈消えさうな〉ものの例示としての虹。〈いまはなき〉〈かつて〉付きの虹=すでに過去となった虹」と定式化している。だが、「私」、文字および虹のこの重なり合いにおいてより重要なのは、文字すなわちエクリチュールである。それが虹と重なり合うことではじめて、愛するものについての小説的な嘘が可能になったのだ。すなわち、夫ではない「夫」が、音楽ではない「音楽」が、ふるさとではない「故園」として、可能になったのである。音楽ではない「音楽」、それは《煮こごりに夜の音楽のなごりかな》と書かれる「音楽のなごり」である。それは、「グランドピアノよりも巨大な梨のかたちをした堕天使」の「歌」を書きとり、また、「海の歌」としての句を書きとる、あの「オンフルールの海の歌」の身ぶりにもかかわっている。すなわち、アマチュアとして書くことに、それはかかわっているのだ。
(後篇へつづく)
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