成分表74 所ジョージ
上田信治
所ジョージが好きだった。
昔、ある人にそう言ったら「オレはあいつは嫌いだ。ビートたけしか、所ジョージかと言ったら、それは、たけしだろう」と、これだから若い奴はと言わんばかりに、言われたことがある。
たけしと所ジョージの二人が世に出始めたころ、ビートたけしはすでに完成した芸人で大人で、所ジョージは半素人で幼かった。それはたしかに、ビートたけしのほうが、すごいし、強い。
ある人というのは、団塊の世代の有名劇画原作者で、その人がそう言うのはいかにもいかにもなことだったので、自分は「はは、そうですか」などと、頭をかいてやり過ごしたのだったと思う。
所ジョージは声がよかった。
その発声には、つねに幾らかの笑い成分が含まれていて、コヨーテとかワライカワセミといった生きものの声のようだった。
ほとんど何もできないまま、いきなり舞台に上げられたはずのその人の声は、なぜか「自分は柄(がら)だけで生きしのいでいける」ということを、確信しきっているように、聞こえた。
その声の、動物の生命のような世界との一体感と「はかなさ」が、十代の自分をなぐさめた。
世界からの愛を確信して振る舞い、人生におけるイージーゴーイングネスを体現するという意味で、所ジョージは、彼のアイドルであった植木等が演じる無責任男のスピリッツを、正しく継承している。
しかし、無責任男が、世界そのもののように理不尽であることによって「父」の代理人たる資格を示すのに対し、所ジョージは、無力かつ無防備なまま理不尽な「父」から愛され得るかという、問いを生きているように見えた。
それは救世主ではなく、天使、あるいは動物、あるいは赤ん坊の振る舞いだ。
プールで泳ぐ
小さな土人
目を開けて
水の中
ミズスマシに会ったよ
(所ジョージ「ミズスマシ」)
自分は最近の「所さん」にはほとんど関心がないけれど、まだ若い彼の「オールナイトニッポン」の最後の放送のことは今でも憶えている。
彼は、自分のキャリアのスタートした場所でもあったその二時間の番組の終わりに「ワタシはこの番組、好きだったなあああ」と、本当に明るい笑いながら泣いているような声で言った。
その声のはかなさは、彼という個を超えて、美しいものだった。
若い彼が体現していたものは「生きるための思想」としてはあまり価値がないかも知れないが、その美しさを自分は見てしまっているので、疑うことができない。
表現の価値とは、所ジョージにおける美のように、表現自体にも表現の内容にも属さずに、その時、第三項として構成されるものだと思う。
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2017-08-27
成分表74 所ジョージ 上田信治
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