西遠牛乳
せいえん ぎゅうにゅう
1. つながりへの意志
牟礼 鯨
「一つの場所にとどまらず移動しながら生活し続けたい」とSは言った。
「移動し続ける人が存在するには、一つの場所にとどまる人が必要なのではないだろうか」と私は言った。
いつも下北沢だった。
代沢三差路近くの郵便局を背に細い路地へ入ると、豆乳チャイを飲める夕焼色の店があった。カウンターカルチャーの古書店「気流舎」と名乗る、ニット帽と無添加食品の似合う店だ。
そこで二〇一六年五月から翌年六月までジョン・アーリの『モビリティーズ』読書会が催された。主催はS。
一ヶ月に一章『モビリティーズ』を読み進めながら、本の記述を解きつつ参加者の実体験を織りまぜて、人やものの移動はもちろん情報の移動についても話した。たとえば、退職願はなぜラインではなく紙なのか、とか。
読書会だけではなくフィールドワークにも取り組み、目黒天空庭園へ赴いたり、夕方の調布飛行場を訪れたり、松陰神社から豪徳寺の界隈を町ゆく人のまなざしを探りながら歩いたりした。
観光のまなざしについての段落で私は観光資源としての歌枕について話しをもちかけた。私は読書会に毎回参加している常連だった。
二〇一六年晩秋のある日、Sは常連であった私を経堂駅前のケンタッキーに呼び出し、読書会のインターネット利用について相談をもちかけた。
それをきっかけにSと私は一緒に熱海へ混流温泉文化祭の展覧会を観に行った。
特急列車が通過するときに唇の動きだけで会話できるようになった。私は「ちゃんと別れ話ができそうだな」と思った。それが恋愛の必要条件だった。
その年の十二月、読書会のない夕方、私は豆乳チャイを飲みに気流舎へ行った。店番で香辛料を砕いていたSは私に質問した。
「鯨さん、俳句ってカウンターカルチャーですか?」
面食らった。だが、こういうことらしい。
フランスに住む俳句作者から気流舎の広報担当であるSに俳句を収録した自著を気流舎で取り扱えるか尋ねるメールがあった。気流舎はカウンターカルチャーの古書店であり、新刊をあまり扱っていなかったためSは判断に迷い、私に訊いたのだ。
「米国のカウンターカルチャーの文脈からすれば、禅のように俳句も西洋詩に対するカウンターカルチャーなのかも。ほらファイト・クラブで主人公が同僚全員に俳句を送りつけたように」と私は答えた。
Sは「ファイト・クラブ」を観たことがなかった。私もSがフランスに住む俳句作者にどう返答したのか知らなかった。そして、半年後に自分たちを待ち受ける運命さえも知らなかった。
黄落す夜の映画をまきもどす 鯨
0 comments:
コメントを投稿