【週俳9月の俳句を読む】
ねむる前に
岡野泰輔
ねむる前に俳句のこと、詩のこと、言葉のことを考えるのは危険である。言葉が絵を呼び、その絵が次の絵を呼び、いつしか出発点を見失っている自分がいる。
かつて田中裕明は思考の揺蕩いを地図の海岸線をたどるうちに対象を見失うという卓抜な比喩で書いていた。彼が夜の形式と呼ぶそれに近い感覚はたしかにあるのだ。他人の句を読んでいながら、いつしか心は句中の一語に触発されて遠いところをさ迷っている。その場所を惜しみつつ元の場所に戻る、うまく戻れるといいのだけれど。ねむるにはまだ少し時間がある。
ねむりびとまたひとり増え星流れ 柳元佑太
どうやら土佐までの旅をテーマにした気持ちのよい連作は結句のこの句になって視野が広がり、それまでの一人称視点から作者を超えた集合的視点(それを神と言ってもいいが)に上昇し連作の終わり方としてとても気が利いている。
例の「太郎を眠らせ~」三好達治のように地上の人間を慈しむような視線が感じられる。ひとり眠り、ふたり眠りと眠る人を数えている。やがてひとつの町や地方がほとんど眠りにつくころ星が流れる。とても美しいが星が流れることによって眠るのは死を含意しているのではないか?との思いがふと過る。でもそれはこの句の傷ではなく、詩の含意する世界の厚みとなって響いてくる。
秋雲や千切れて飛べる雲の中
みづうながすみづの流れや澄みてをり
二句とも同質の中の微細な運動の変化をいかにも俳句的な発見の目で捉えている。水の中は先行句が犇めき不利な場所だが、雲の中はそうでもなく新鮮。
核の世の網棚に置く榠樝の実 森澤 程
夭折の小説家が丸善に画集を積み上げたころ、その上にひとつの檸檬を置いたころ、世界はまだ核をもたなかった。すでに核が偏在する世界に住み、あらゆる都市がテロルの標的となる時代、かつて小説家をとらえた「心のなかのえたいの知れない不吉な塊」もひろく人のなかに偏在することとなった。画集の上の黄色く輝く檸檬がハイカラな書店を爆破するイメージは古都の薄闇のなかで花火のように美しくさえあったが、網棚に置かれたずっしりと持ち重りのする榠樝の実はあのハイスピードの映像としてのみ知っている花の開くような核の雲を目の前に呼ぶ。それにしても網棚とは不思議な言葉だ。今では金属かプラスチックになって、すでに網ですらない。網と書かれていることで榠樝の実の重量に漁網のような網が撓む様子がリアルに現れる。現在、榠樝の実を置く場所として網棚という選択は実に正解であったというべきか。
階段も雲もテンペラ小鳥来る
この階段は空に向かっているのだろう。一読、田中裕明の「空へゆく階段のなし稲の花」を思い浮かべつつ、夭折の画家有本利夫の静謐な絵が浮かんだりもする。古雅なマチエールのテンペラで描かれた先端が雲に隠れている階段がそう思わせるのか。有本もマチエールに凝る作家で、ピエロ・デラ・フランチェスカなど初期ルネサンスのフレスコやテンペラに学んだ。そして小鳥来るからはジョットの小鳥に話しかける聖フランチェスコのフレスコ(アッシジ聖フランチェスコ大聖堂)を思わないではいられない。要するにそういうことなのだ。この句に初期ルネサンスの芳しい香をかぐ。そうなるとプレテクストの数々の美しいマチエールが本テクストを織り上げる過程を勝手に想像するのは楽しいし、小鳥来るという季語もそのためにあったような気がしてくる。もうひとつ、空にゆく階段ならどうしても『天国への階段』(1946年、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー監督、英映画)だろう。(今ならコーエン兄弟かウォシャウスキー姉弟のような監督・脚本デュオ。ほかに『赤い靴』『黒水仙』など)。昔NHKで観た記憶があるが天国と地上を結ぶ階段を主人公のデヴィッド・ニーヴンが往復していた。
天国がモノクロ、地上がテクニカラーらしいが、当時我が家のテレビはモノクロでその効果分からず。田中裕明の空へゆく階段の句に出合ったときもすぐこの映画のことが思われた。そうか、裕明は階段の先に天国を見ていたのかと。
香水の文字の中まで入り込む 伊藤蕃果
香水が主題の句は、それが使用されている空間とか時間とか、人を詠む。要するに人事を詠むことがほとんど。香水の液体としての物質性そのものを主題としてとり上げるのは珍しいのではないか。この文字が書かれてあるものはなんだろうか。書物?手紙?メモ?その他この香水の持ち主の生活空間にロマネスクな思いを馳せることも可能だが、ここではモノそのもの、香水瓶のラベルと読みたい。すでに何度も使われて、瓶の口から漏れた香水がラベルに染みているのである。意匠を凝らした瓶のかたちとか、レトリックと書体にも神経をつかったブランド名。それらが香水によってちょっと無残に汚されている。「入り込む」まで言ったことで、ある時間経過まで読み取れ、いい景である。
天道虫星あざやかに朽ちてをり
ナナホシテントウムシが死んでいる。死の後も、鞘翅と言うのか、感覚的には背中の七つの黒い星はオレンジ色の地との対比で鮮やかである。生き生きと死んでいるのである。とまあ真っ当に読めばそういうことになる。もうひとつはテントウムシと星空を一挙に視界に入れる大胆な手。今、肉眼に鮮やかに瞬いている星のいくつかは何光年もかけて地球の視界にたどり着いた光。この瞬間にも星は燃え尽きて朽ちている。そのような巨大なもの(時間)とテントウムシのもつ小さなからだと小さな時間、の句中でのかっこいい共存。
かつて田中裕明は思考の揺蕩いを地図の海岸線をたどるうちに対象を見失うという卓抜な比喩で書いていた。彼が夜の形式と呼ぶそれに近い感覚はたしかにあるのだ。他人の句を読んでいながら、いつしか心は句中の一語に触発されて遠いところをさ迷っている。その場所を惜しみつつ元の場所に戻る、うまく戻れるといいのだけれど。ねむるにはまだ少し時間がある。
ねむりびとまたひとり増え星流れ 柳元佑太
どうやら土佐までの旅をテーマにした気持ちのよい連作は結句のこの句になって視野が広がり、それまでの一人称視点から作者を超えた集合的視点(それを神と言ってもいいが)に上昇し連作の終わり方としてとても気が利いている。
例の「太郎を眠らせ~」三好達治のように地上の人間を慈しむような視線が感じられる。ひとり眠り、ふたり眠りと眠る人を数えている。やがてひとつの町や地方がほとんど眠りにつくころ星が流れる。とても美しいが星が流れることによって眠るのは死を含意しているのではないか?との思いがふと過る。でもそれはこの句の傷ではなく、詩の含意する世界の厚みとなって響いてくる。
秋雲や千切れて飛べる雲の中
みづうながすみづの流れや澄みてをり
二句とも同質の中の微細な運動の変化をいかにも俳句的な発見の目で捉えている。水の中は先行句が犇めき不利な場所だが、雲の中はそうでもなく新鮮。
核の世の網棚に置く榠樝の実 森澤 程
夭折の小説家が丸善に画集を積み上げたころ、その上にひとつの檸檬を置いたころ、世界はまだ核をもたなかった。すでに核が偏在する世界に住み、あらゆる都市がテロルの標的となる時代、かつて小説家をとらえた「心のなかのえたいの知れない不吉な塊」もひろく人のなかに偏在することとなった。画集の上の黄色く輝く檸檬がハイカラな書店を爆破するイメージは古都の薄闇のなかで花火のように美しくさえあったが、網棚に置かれたずっしりと持ち重りのする榠樝の実はあのハイスピードの映像としてのみ知っている花の開くような核の雲を目の前に呼ぶ。それにしても網棚とは不思議な言葉だ。今では金属かプラスチックになって、すでに網ですらない。網と書かれていることで榠樝の実の重量に漁網のような網が撓む様子がリアルに現れる。現在、榠樝の実を置く場所として網棚という選択は実に正解であったというべきか。
階段も雲もテンペラ小鳥来る
この階段は空に向かっているのだろう。一読、田中裕明の「空へゆく階段のなし稲の花」を思い浮かべつつ、夭折の画家有本利夫の静謐な絵が浮かんだりもする。古雅なマチエールのテンペラで描かれた先端が雲に隠れている階段がそう思わせるのか。有本もマチエールに凝る作家で、ピエロ・デラ・フランチェスカなど初期ルネサンスのフレスコやテンペラに学んだ。そして小鳥来るからはジョットの小鳥に話しかける聖フランチェスコのフレスコ(アッシジ聖フランチェスコ大聖堂)を思わないではいられない。要するにそういうことなのだ。この句に初期ルネサンスの芳しい香をかぐ。そうなるとプレテクストの数々の美しいマチエールが本テクストを織り上げる過程を勝手に想像するのは楽しいし、小鳥来るという季語もそのためにあったような気がしてくる。もうひとつ、空にゆく階段ならどうしても『天国への階段』(1946年、マイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー監督、英映画)だろう。(今ならコーエン兄弟かウォシャウスキー姉弟のような監督・脚本デュオ。ほかに『赤い靴』『黒水仙』など)。昔NHKで観た記憶があるが天国と地上を結ぶ階段を主人公のデヴィッド・ニーヴンが往復していた。
天国がモノクロ、地上がテクニカラーらしいが、当時我が家のテレビはモノクロでその効果分からず。田中裕明の空へゆく階段の句に出合ったときもすぐこの映画のことが思われた。そうか、裕明は階段の先に天国を見ていたのかと。
香水の文字の中まで入り込む 伊藤蕃果
香水が主題の句は、それが使用されている空間とか時間とか、人を詠む。要するに人事を詠むことがほとんど。香水の液体としての物質性そのものを主題としてとり上げるのは珍しいのではないか。この文字が書かれてあるものはなんだろうか。書物?手紙?メモ?その他この香水の持ち主の生活空間にロマネスクな思いを馳せることも可能だが、ここではモノそのもの、香水瓶のラベルと読みたい。すでに何度も使われて、瓶の口から漏れた香水がラベルに染みているのである。意匠を凝らした瓶のかたちとか、レトリックと書体にも神経をつかったブランド名。それらが香水によってちょっと無残に汚されている。「入り込む」まで言ったことで、ある時間経過まで読み取れ、いい景である。
天道虫星あざやかに朽ちてをり
ナナホシテントウムシが死んでいる。死の後も、鞘翅と言うのか、感覚的には背中の七つの黒い星はオレンジ色の地との対比で鮮やかである。生き生きと死んでいるのである。とまあ真っ当に読めばそういうことになる。もうひとつはテントウムシと星空を一挙に視界に入れる大胆な手。今、肉眼に鮮やかに瞬いている星のいくつかは何光年もかけて地球の視界にたどり着いた光。この瞬間にも星は燃え尽きて朽ちている。そのような巨大なもの(時間)とテントウムシのもつ小さなからだと小さな時間、の句中でのかっこいい共存。
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