2017落選展を読む
3「青本瑞季 みづぎはの記憶」
上田信治
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野遊びのきれいな耳についてゆく
髪を短くしている人の、後ろから見るとめだつ耳。耳は皮膚がうすくてエロティックなパーツであり、季語「野遊び」のウラ本意は「ちょっと異界まで」なので、この人は、コミュニケーションがとれないその人のあとを、奧へ奧へとついていってしまう。
痣がちの四肢を余せり夏館
四肢をもて余すとは思春期の謂いであって、その皮膚が白く痣がちであるゆえに、夏館を出られず退屈をしているとなれば、それはほとんど「お嬢様」と言っていいような、いたいたしく、ナルシスティックな主人公である。
虹見せてくる眼球はすこし丘
眼球は、たしかにひとつの光学的機構であって、わたしよりもセカイの側に属するのかもしれない。「丘」すなわち地形的スケールの巨大な眼球によって、わたしはセカイの一部として、放下したように虹を見せられている。
むずかしいことを勇敢に試みている書き手。
現実と半ば切れ、半ばつながった言葉で、心理的なものや抽象的なものを描こうとしている。
上に挙げた句は、肉体のパーツをてこに、「それ」を架構し、手渡すことに成功している。
「それ」とは、言葉でたちあげた、この世にない、あやうい細工物のようななにかだ。
いまアニメでやってる市川春子の「宝石の国」みたいな(ト言ったらほめすぎかもしれないけど)つくりものの世界。
夕暮れの桜海老なり目をなくし
灼けながらばらばらに来る犬の脚
風車西の市場の違ふ匂ひ
こゑは鋭利にくちびるを濡れ夏終はる
逝く秋がまぶしい海としてわかる
目をなくした桜海老や、ばらばらの犬は、かわいい。西の市場の書かれていないストーリーは、おもしろそう。「鋭利に…濡れ」「まぶしい…わかる」のつながりはよく分かる。
ただ、ほんとうにバランスだけで成り立っているような書き方なので、ひとつミスると世界が立ち上がらないし、読み手によりかかる部分も大きくなる。〈春の雷本の屍臭が書庫の中〉〈描きぶりが絵になる人で花のまへ〉〈ぼんやりと蟻の集まる墓のうら〉などは、この人にしてはベタだろう。逆に〈青鷺はビル光のなか展けてゐる〉などは、読み切れなかった。
打率とか、歩留まりを言い出したら、はじまらない方法なのかもしれないけれど、この人の「読める」句で数がそろったら、そりゃあすごいんじゃないかと期待させるスケールの大きさがある。
永き日を部屋まで海が照つてゐる
永き日「を」と書いたら、主体が現れなければいけないところを、肩透かしして、これも放下の感覚。「逝く秋が」と対句になっていて、海光が、春は部屋まで来てくれて、秋はまぶしく行ってしまう。これはおぼえてしまいそうな、二つの句。
2017角川俳句賞「落選展」
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2017-12-17
2017落選展を読む 3 「青本瑞季 みづぎはの記憶」 上田信治
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1 comments:
〈青鷺はビル光のなか展けてゐる〉色の連想があるか。しまった、いい句ですね、これ。
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