肉化するダコツ③
刈るほどに山風のたつ晩稲かな
彌榮浩樹
刈るほどに山風のたつ晩稲かな
彌榮浩樹
俳句について大切なことは、すべて蛇笏に教わった(やや大袈裟だが)。
それをめぐる極私的考察、その3回目。
掲句、「晩稲」は「おくて」と読む。
なんともまあ地味な句だなあ、という印象を受けるだろうか。
意味内容・立ち上がるイメージは、たしかに地味だ。
晩秋の、山国での農作業を詠んだ句。すでに僕たちがほとんど目にしなくなった、昭和のひなびた一風景だ。晩秋のすさまじさ、その中での農作業の厳しさ、わびしさ。そうした哀感を詠んだ句。それはその通りであろう。
しかし、もしも、この句がそうした哀感に尽きるならば、「山風」を浴びながら「晩稲」を刈った経験もないし今後もあるはずのない僕にとって、この句は(たとえ立派であったとしても)他人事、とりつく島のない句、でしかない。
とんでもない。この句は、僕には「神品」(決して大袈裟ではない)とさえ感じられる句、とんでもなく「怖い」句、なのだ。
その「怖い」という印象の内実とは何か?
今回は、その1点をめぐる考察である。
もちろん、この作品が立ち現わす情景・イメージのすさまじさ・哀感が、「怖い」という印象につながっているに違いない。
しかし、そこにこの句の俳句作品としての核心はない(あくまで極私的な見解です)。
僕の感じる「怖い」は、意味内容の次元での理解やイメージとしての情景の感受を超えた、もっと深層での「身体的な脅かされ」「差し迫り」である。
その深層の切迫感によって、表層の意味内容・句のイメージの立ち現われが、より”リアル”なものになる。この句を読むたびに、今まさに刈りとられつつある晩稲から山風がたつ、そんな味わいをリアルに感じてしまうのだ。すなわちシュルレアル(強=超現実)。それがこの句の「怖さ」の核心である。
a 刈るほどに山風のたつ晩稲かな
b 晩稲刈るほどに山風たちにけり
安直な操作(改悪)だが、原句aを例えばbのように改変すると、たちまち「怖さ」が消えるのがよくわかる。意味内容・情景イメージは変わっていない。映像化すれば同じ景になるはずだ。しかし、「怖さ」は全く異なる。つまり、核心は、aの措辞・叙法にあるのだ。
もう少し、とりわけ中七の措辞の機微に注目して、精査してみよう。
a 刈るほどに山風のたつ晩稲かな
c 刈るほどに山風たちし晩稲かな
d 刈るほどに山風たてる晩稲かな
どうだろうか?
すでにaに親しんでいるから、だけではなく、cdには、原句aにあった、決定的な霊的な何かが消えてしまっている、それがはっきり見てとれるのではないか。
それは何か?
まず、単純に、aにあって、cdにないもの、それは「山風の」の「の」だ。
この「の」という言葉のもつ、もっこり感。これがaのシュルレアルな味わいのひとつの大きな鍵になっている。
これは、個人的に<オノマトペ化>と名付けている、俳句作品特有の言葉の舞踊の仕方である。(前回の「かへす」と「かへる」の差は、こことも関わる)
「の」は、例えば、<主格をあらわす格助詞>と説明されるのだが、そうした機能とは別に、aの「の」は、もっこり感を与える「の」というかたち、彫刻的な「の」というフォルムでもある。この「山風のたつ」の「山風/の/たつ」のあたりのくびれ、「の」のもっこり、「たつ」の固さ、それらがあいまって高まった触感の<圧>が、「晩稲かな」で完結することで、立体的・力動的な余韻が残る。
例えば「さらさら/べとべと」が、言葉そのものの触覚的な感触として「さらさら/べとべと」感を与える。オノマトペ(擬態語・擬音語)とはそうしたものだが、(うまくいっている)俳句においては、例えば「の」という助詞が、触覚的なもっこり感を感じさせることで、句に不思議さあるいはリアルな感触を与える。つまり、オノマトペ的機能を果たす。
これが、俳句作品におけることばの<オノマトペ化>だ(勝手な造語です)。
逆に、cの「し」は明らかに邪魔だ。過去を表すという意味内容とは別の触感において、「山風(の)たつ」立体感を阻害している。風が漏れ出てしまうのだ。
dの「る」はまだマシだろうが、aと比べて、こちらは意味内容が何とも曖昧になる。文語「たつ+り」なのか、口語的な他動詞「たてる」なのか、判然としないために、結果的に「山風(の)たつ」感じがしなくなる。
aの中七「山風のたつ」は、オノマトペとして完璧な措辞なのだ。
さて、abの比較に戻ろう。
a 刈るほどに山風のたつ晩稲かな
b 晩稲刈るほどに山風たちにけり
bが怖くないのは、「晩稲」をはじめに置いたことによって、<ネタバレ>になっているから、でもありそうだ。
逆にa「<刈るほどに/山風のたつ/晩稲かな>」を読む過程を微分的に精査すると、上五で「刈る」対象はもちろん「晩稲」なのだが、上五の時点ではその対象はまだ姿を表わしてはいない。そこに中七「山風のたつ」が続くために、何かを刈るその何かが山風と化すようなイメージが立ち上がるのだ。その怖さ。その上で座五に「晩稲かな」が置かれ、「刈る・・・晩稲」のつながりに納得させられるのだが、それでも初めに感じた<刈るほどに/山風のたつ>の怖さは消えない。
bのようにはじめから「晩稲刈る」と言ってしまうと、そこにもう実体として「答え」が出てしまっているために、イメージの揺れがない、ただの説明に堕す。すなわち、ネタバレ。
この、
<謎>の上五→<絶品>の中七→<解決>の「~かな」の下五
という構造は、蛇笏の「~かな」止めの句の大きな特徴のひとつだと言えそうだ。
例えば、こんな五句。
高西風(たかにし)に/秋たけぬれば/鳴る瀬かな
をりとりて/はらりとおもき/すすきかな
閑かさは/あきつのくぐる/樹むらかな
切株に/おきてまつたき/熟柿かな
罠のへに/たちとまりたる/鶫かな
それぞれの措辞の関係性に多少のズレはあるが、どれも、意味内容とは別次元の五・七・五の言葉はこびによるドラマであり、そこから立ちのぼる霊的な“怖さ”が印象的である。
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