2018-12-09

BLな俳句 第20回 関悦史

BLな俳句 第20回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第155号より転載

牡丹焚く男姿も絵になりて  能村登四郎『天上華』

季語「牡丹焚く」の句で男の姿を配したものがどれだけあるのかはわからないのだが、少なくともそれが主流とはなっていないはずで、この素材と置き方だけで、作者を知らなくとも登四郎ではないかと見当がつく。

「男姿」は辞書では「男の身なり・振る舞い」をまず指すが、同時に「男装」をも意味している。ただの「男」ではなく「姿」まで付けたことで、下五「絵になりて」の審美的な視線までスムーズに導き出されることになるのだが、逆に「姿」や「絵」などビジュアルに特化することで、かえって人物の内面的厚みに感応している気配もある。今たまたまそういう姿、そういうシーンになっているという流動性が句に入ってくることにより、「牡丹焚く」との間にまで、人と植物の境を越えて通い合うものがあらわれてくるのである。

とはいうものの、供養の意をこめて焚かれる枯れた牡丹の木をことさら擬人化して、男と牡丹の精の死別といった物語をでっちあげる必要はない。

一句はさながら、登四郎当人が萌えるBL本の表紙絵といった趣きを呈しており、いかにも絵になりそうな事物をぬけぬけと「絵になる」といって句にしてしまう手際に見るべきものはあるものの、すべては登四郎の審美化の欲望から成り立っていて、「男姿」も焚かれる「牡丹」ももともと同列の構成要素に過ぎないのだが、バランスからいえば「牡丹焚く」は「男姿」を際立たせるための背景に近いからである。牡丹と男に通い合うものがあるとしても、それはどちらも「絵」のうちであるという、登四郎的視線のなかに取り込まれ、均されていることによる。

むしろこの句で面白いのは「絵になる」という枠を提示してしまったことで、画中のキャラクターと化した「男姿」と、それに魅入られて萌える作者という関係までが入ってしまっているところなのではないか。


その太き氷柱の中の美童かな  能村登四郎『天上華』

氷柱の透明さに見入るうちに、その内部の複雑な光の屈曲にまで目が分け入り、ありえざるものを見る。どちらかといえば、現に目の前にある氷柱というよりは、記憶のなかの氷柱によるものなのかもしれない。目の前にある現物はときにその視覚的な情報量の多さからかえって句への集約を妨げるからである。

氷柱のなかに封じ込められた美しいイメージの句としては鷹羽狩行に〈みちのくの星入り氷柱われに呉れよ〉があるが、こちらは性的な含意はない形で、東北の風土と、澄んだ空気を通して見える星、そして「呉れよ」と呼びかけられる、おそらくは子供が呼び出される。この子供は、氷柱のなかに封じ込められたみちのくの星というファンタジー的なイメージを語り手がひそかに共有できる相手であり、いわば天界を通じた共犯関係を結んでいる。

登四郎の句も、氷柱のなかの美童という、あきらかにこの世のものではないイメージを引き出してはいるものの、それを共有すべき相手は、さしあたり句のなかには一人もいない。すべては語り手と氷柱の間でのみ起こった、一種の理想化である。自分と、自分が見る美童とのみがあればよい。

その美童の位置なのだが、「太き氷柱」そのものが美童のようだと喩えられているわけではなく、氷柱の外に美童が浮遊しているわけでもない。美童は氷柱のなかにいる。凍りつき、眠っているのかもしれない。あるいは、氷柱のなかの世界でのみ、美童は自在に動けるのかもしれない。

「太き氷柱」が形状的には男根を想起させてもおかしくはないのだが、しかしこの「太き氷柱」は、むしろ霊威に満ちた大自然の運行そのものとして現前している。美童はその大きな力とともにある。その気になれば人などただちに凍死させることもできそうだ。「太き氷柱」は美童に従えられる巨大な龍のようなものといえようか。

そう考えるとこの美童は、氷のなかに閉じ込められた可憐な存在であると同時に、大きな力を揮いうる、しかも人界の規範に従わない存在ともいえる。

語り手との関係を「受け」、「攻め」で分類するならば、どちらに転んでもおかしくはない。


まつすぐに眼見てもの言ふ春童  能村登四郎『天上華』

「春童」は季語ではなさそうで、辞書にもなく、造語らしい。そのまま春の子供ととればよさそうだし、妖精や魑魅魍魎の類でもなく、ふつうの人の子に見える。

「まつすぐに眼見てもの言ふ」は、一方的に窃視的な視線をまといつかせることも少なくない登四郎的主体が、相手からも見られている点でやや珍しい。一見、文字通り邪気のない句である。

しかしまっすぐに眼を見ることで、不意打ち的に語り手を関係のなかに巻き込んでしまうこの子供に「春童」という造語が用いられているところは、ただの子供のように見えて、じつは春の到来を擬人化的に担いつつ顕現している子供のようでもある。見られることで安定しきった地盤が揺るがされていることを思えば、語り手の側は子供の形をとった春そのものに取り巻かれていることに、今気付いたという風情の句ともいえる。ただの子供と甘く見ていると、あっさり春のただなかへと引き倒されかねないのである。

この「春童」も、あえてBL用語で分類してしまえば、「誘い受け」か「攻め」のいずれかなのではないか。


賀の客の若きあぐらはよかりけり  能村登四郎『天上華』

年始のあいさつに来た客がかしこまって正座などせず、あぐらを組む。それ自体はとりたてて珍しくもない動作、光景であるはずなのだが、そこに登四郎の眼が介在し、「よい」とされると途端に妙な色気があらわれる。

問題は「若き」と「あぐら」の組み合わせにある。季語の「賀客」も年始のめでたい華やぎを演出しているには違いないが、これはどちらかといえば舞台装置にとどまる。また、あぐらを組んでいることも、語り手との気の置けない仲をうかがわせるが、それだけのことでしかない。

ところがこれが「若き」の一語と組み合わせられたとき、「あぐら」は不意に対人間の距離やその場の雰囲気といったものから外れて、こちらに向かって広げられた青年のしなやかな下半身という肉感を際立たせることになってしまうのだ。単なる親しい年少者への慈しみと片付けるには「あぐら」の「よさ」が目立ちすぎている。

相手はおそらくそのようなことは意識しないまま、年賀と若さを響きあわせている。そこが句としてのめでたさにもなっている。

句集『天上華』にはほかにも〈板前は短髪がよし叩き鰺〉〈独活食べてゐるなかなかの美髯かな〉といった、「よし」という判断を前面に出した句があるが、この二句は「板前」「短髪」「美髯」と、BLというよりはむしろ男性同性愛者向けの漫画・小説に近い美意識でできている。この「よし」「よき」という言葉は俳句のなかで使うと、作者が大自然や造化の神に対してお墨付きを与えているようで、妙に尊大、鈍感に見えることもあるのだが、登四郎の場合は男性にひそかに目を細めていることが多いせいか、そうしたきらいはあまりないようだ。


うす墨にさくらが見えて男かな  能村登四郎『天上華』

ウィキペディアによると「淡(うす)墨(ずみ)桜(ざくら)」と呼ばれる、樹齢千五百年以上のエドヒガンザクラの古木が岐阜県本巣市の淡墨公園にあり、散りぎわに淡い墨色になるという。つまり「淡墨桜」となると特定の一本の木の固有名になるのだ。

この句の場合、「うす墨にさくらが見えて」と分散させた言い方になっているので、場所まで特定する必要はさほどなさそうだが、この桜がイメージの元となっているのだろう。

知らずに読んでも「うす墨」に無彩色化してしまった桜は、やや異様な世界への突然の切り替わりを思わせ、そこから唐突にあらわれる「男」との出会いも充分世の常のものではないと見えるのだが、散りぎわに変色するという淡墨桜の伝承を踏まえると、黄泉に接した辺りでの出来事めいてくる。

その意味では、BLというよりも怪奇幻想小説に近い内容の句なのかもしれないのだが、「さくら」がそれを耽美方向へ引き戻す。ほかにひと気のありそうにないこの句の世界において、桜のイメージをまつわらせた「男」との出会いは、語り手当人の知らぬ間に定められていた運命的な密会のようにも見えるのだ。

一方、この「男」、他者ではなくて、語り手自身のことと取れないこともない。

その場合大意は、うす墨にさくらが見えたとき、私は不意に自分が男性であることを再認識した、ということになる。

無彩色の世界への衰えがかえって自身の性を意識させるということは普通にありうる話だが、句を読み下したとき自然に出る解釈は男=他者とするものだろう。しかしその他者と見えた男がじつは自身の分身であったり、過去や未来の自分であったりということもありうる。この「男」は自身が身元不明であるだけではなく、語り手のアイデンティティをもひそかに溶解させてしまうのだ。

一句が単なる写生として読みうる体勢を崩してはいないところが、かえってさまざまな連想を誘い、世界を重層化する。


*

関悦史 夜桜


初詣混めば手つなぐ少年たち

カラオケの友の手見つめゐて春夜

淫夢は校舎に裸(ら)少年百春の月

千の青年めく夜桜へ歩むなり

桜の夜S字結腸まで入る

メス堕ちの青年の身ぞ春の雷

間欠泉を受けと思へば春の汗

父を恋ふ息子の如く薔薇は雨

地球×月が月蝕 月果てたり

正座解きし少年悶えゐる襖

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