2019-02-03

【空へゆく階段】№3 雑詠鑑賞 田中裕明

【空へゆく階段】№3
雑詠鑑賞

田中裕明
「青」1982年1月号・掲載

しばらく前から読者の立場に身をおいて俳句を眺めること、あるいはその立場について俳句読者論という言葉をこしらえて考えている。奇異な言葉にはちがいないけれども俳句読者という言葉の奇妙さ加減のうちに俳句の読み手の特殊性がある。この欄は雑詠鑑賞のページなのだけれども同時に俳句読者論のためのノオトを記すことができないかという、いかにも虻蜂とらずになりそうな目論見から書きはじめているのである。

「読者」たる自己を意識している読者を近代的読者と呼んでみれば、一般に俳句の読者はこの近代的読者と呼ぶにはあたらない。これは近代的読者がいつどのように誕生したか考えてみればわかることで、作者と読者の分離がすすんでゆくところに近代的読者が生まれたのだから、作者とかさなる俳句の読み手が近代的読者になりうる筈はなく、そしてこれは既によく言われてきたことである。

ただ現象的に文学の形態を口承から文学へそれも手写から印刷へと変化してきたと考えれば、近代的読者は印刷技術の普及とともに生まれるべくして生まれたと言うこともできるから、俳句が活字文化のひとつに数えられ、その口承性が失われつつある現在、俳句読者にも近代化の兆しが見えると言えないこともない。しかしながらそういう現象的な観点には興味を持つことができないし、俳句という文芸は近代の波に洗われずに最後まで残るものという考えを当分捨てることはできないから、近代的俳句読者なるものについての議論はしない。

竹伐りし顔が出てきて川を堰く  倫子

はじめからわかっていることにちがいないけれども、この巻頭句には前後に文脈というものがない。これはべつに不思議なことでもまたこの作品にかぎったことでもなくて、昭和初期に行なわれた連作俳句などの試行を例外とすれば、俳句は一句一句で勝負するものとふつう考えられているようである。句集などで読まれるときには前後にたくさんの作品がたとえば編年体で並んでいるわけでそれを文脈と呼べば呼べないことはないし、作家の変貌の流れという意味で文脈という言葉を使えなくもないが、いまここで考えている文脈とはずいぶんちがった意味をもつことになる。

俳句に文脈がないと言えばそれはあたりまえのことで、連句における発句を独立させたものを俳句と呼ぶようになったときから脇句を断ち切ったところに俳句の俳句たるゆえんがあるのだから、あとに残ったものを気配と呼ぼうが呼吸と呼ぼうが、虚妄としか思えない。

文脈という言葉は、contextをうまく翻訳したものであるけれども、コンテクストがそのまま日本語に書きかわっているとは言えなくて、これは翻訳語のつねながらコンテクストともとの言葉を用いたほうが通りがよいときがある。そしてそのときに俳句にはコンテクストがないと言えばすこし頭を傾げたくなって、もういちど気配とか呼吸とかいったあたりに戻りたくなる。

これを作者のコンテクストと読者のコンテクストの微妙なずれというところからはじめるとイメジ論にかかわらずにはおかないが、べつに長くなるからという理由でもなくいまは触れずに次の機会を待つ。

落鮎やくの字に坂を教会へ  美枝子

さきに述べた俳句のコンテクストとはいくつかの句が並んでいるときの一句と一句のつながりという意味であったけれども、これを一つの作品のなかのたとえば上五と下十二とのつながりという意味に用いても差支えない。そしてそういえば別にめずらしい見方ではなくて、俳句つくりの一半はそのコンテクストにかけられると言っても言い過ぎではないのだから俳句読者はそこを読みとらねばならなくなる。ここにあげた落鮎の句の場合、上五と下十二の間に微妙なではすまないずれがあることは誰しもが気づくところではあるがそのずれをプラスにとるかマイナスにとるかは意見のわかれるところである。またその意見のちがいが生まれると言うのは一句一句のコンテクストから語と語のコンテクストへと視点がうつるに従って作り手の目と読者の目とがしだいに接近してくるという理由によると考えられ、そのとき読み手としての目と同時に作り手としての目が試されているのである。

この意見がわかれるという何度も経験したがゆえにしごく当たりまえに思われる事柄をもういちど考えなおしてみると、散文と詩の伝達性という整然とした論理にゆきあたる。
一般に言って散文は何かを伝達するために書かれるのであり何ものも伝達しないような散文は意味をもたない。これには注釈が必要で外国語で書かれたものや古典と呼ばれるものを読むときに困難を感じるのは言葉が違うことによって散文でありながら伝達性を失っているからである。だからと言って散文を書くときにこれが外国の読者や百年後の読者に理解されるだろうかと悩むことは、同時代の日本の読者に自分の書いたものが理解されることを疑うのとは別の意味でおかしなことである。

詩は散文と逆に何ものかを伝えようという意志を捨てることによって純粋になってゆくということができる。たしかにこれは誤解されやすい言い方にちがいないが、この詩は何も伝えていないというのはあるいは最大の讃辞ではないだろうか。だから詩においては伝達性が少ないがゆえに読者に解釈がまかされさまざまな読みが存在すると言えばしごくあたりまえの議論になってしまい、俳句読者論として何かを加えるということがない。

颱風のあとに花あり島の路地  秋花

詩の伝達性ということを別の言い方をしようとおもえば頭にうかぶのは単純化という言葉である。ものを描くという行為は無限に複雑になってゆく筈のものだが、その分析が一瞬にして総合されるときが来、それを直観による単純化と呼んでもかまわない。だから単純化のよくきいた句という不思議な言葉は、十全に対象を描いた俳句にも妥当な評言なのである。

解題:対中いずみ

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