【空へゆく階段】№5
雑詠鑑賞
田中裕明
雑詠鑑賞
田中裕明
「青」1982年2月号・掲載
べつに批評家が存在しなくても作品は作品であることをやめないが、批評対象としての作品なしには批評家は批評家でありつづけることができない。この場合一般通念としての批評家を頭においているわけだが、こう言ってみたところで批評家というものを低く見ることにならなくて、また作品なしに批評家なるものを想像できないこともない。批評とはつまるところ他人の作品を借りて自己を語る行為だと考えれば、その他人の作品がないときには批評家は自分で作品を創りだして勝手にそれを批評しはじめるということがごく自然ななりゆきのように思われる。
批評とは自分を語るのだと決めた、言いかえれば批評家たる自覚を持つにいたった批評家を先の用例にならって近代的批評家と呼べば、彼は読者の特殊なかたちであって、「読者」たる自己を意識せずにはおれないけれども、それ以上にまず彼なりの方法論をもって作品に対峙することをやめない。それゆえに批評家は近代的読者よりもさらに作者と読者との分離がすすんだ新しい読者であると言えるかもしれないが、この「読者」は実に作者によく似た顔つきをしている。
俳句の世界には批評家が不在であると、これもよく言われる事柄の本当の意味は、俳句読者という作り手ならざる自己を自覚しようのない読者を脱することは、俳句を作るかぎり不可能であるということにほかならないし、そのこと自身は意識されないこともない。『もともと実作者である私には人さまの作ったもの、自分の作ったものというような冷静なけじめは、はじめからないのである』とは魚目さんが「鳥道」特集に寄せた文章のなかの言葉だが、そのあたりの消息をよく伝えている。
批評家が近代的読者のカテゴリーをも逸脱したゆえんが彼が持つにいたったペンにあることは明らかで、作者と分離することによってその意味を深めた読者がまた表現者となることで枠をひろげたことも驚くにはあたらない。選は創作であるという。これを言いかえれば批評は創作であるということになるけれども、はたしてヴァイスヴァーサと言えるかどうか。そう簡単にはゆかないことはいつも経験しているのである。
干柿の渋飛びゆくか神の山 道代
読者が読みとる意味と作者が前提としている意味が異なることには何の不思議もなくて、それを作者と読者のコンテクストのずれととらえることも可能だが、ここでは言葉の伝達の際に生まれる作者のものでも読者のものでもない、イメジとして考えてみたい。読者の意味と作者の意味の間の断絶が非常に大きい場合には媒介者のイメジとして明確な像を結ぶことはできない。実際こういうことはしばしば経験することであって俳句読者は作者と読者が未分化の状態にあると言っても、作者群と読者群というものを考えれば俳句読者とはその二つ群がまったく重なることを言うだけで、群を構成するひとりひとりの俳句読者はときとして非常にかけはなれたコンテクストを持つことがある。その場合作者が意図したものとは違ったイメジが読者に伝達されるということすらなくて、読者は何を読んでいるのかわからなくなり伝達という言葉の意味もあやしくなってくる。作者から読者への回路が断絶してしまえばそれは或る意味で答えのはっきりしたことであるけれども、作者の意図はよくわかるのだけれどもそれ以上どうと言うことがないということがよくある。たとえば散文で言えばつまらないことが何故詩で言うときにそれがまさしく詩になるのかという疑問について作者と読者の間に大きな断絶があって、その断層を冷静にうけとめれば次のガストン・パシュラールが「空と夢」で定義した想像力というもののひとつのかたちがなじみやすいものになってくる。
澄む水や拡大鏡を書に挟み 文子
メタファーを意識するということは、目の届く範囲の俳句読者においてはおこなわれていない。意識されないと言ってそれが俳句にメタファーがないということにはならなくて、アリストテレスの「詩学」においては今日イメジという言葉が使われるのと同じ具合にメタファーという言葉を使っているから、詩とメタファーは切っても切れないものであると言えそうである。もちろんメタファーを意識したからといって詩が見えてくるわけではないけれども、比喩的表現がイメジとして定着するときに詩の詩としての力がはたらくのだから、生きいきしたメタファーの世界が俳句が詩としての活力をとりもどすところと言ってよい。
メタファーが生きいきしているとはどういうことが考えてみれば、イメジの補償作用とも言うべきはたらきに気づく。メタファーは使い古されることによって死ぬが、それが新鮮であるときには却って読者とのコンテクストのずれが原因して像を結ぶことがなく、読者の側のコンテクストを充当することによってはじめてイメジが生まれる。これはまた俳句読者の特質のひとつであるけれども、このコンテクストの充当の際に共通のセオリーがあって俳句を作らない人に対してわかりにくくしている。たとえば季語であって、そのとき季語は新鮮なメタファーなのだが、俳句のコンテクストに不慣れな人にはどうやっても解けない合せ錠のようなものとなっている。つまりイメジの補償作用がはたらくためにも、俳句の場合には意味の伝達にそれほど重きをおかないからこそ、その回線が強固なものであることが必要になってくる。もちろんこれは俳句の理解のためにということであって、俳句読者の目的が俳句の意味を知ることでないのは言うまでもない。
≫解題:対中いずみ
批評とは自分を語るのだと決めた、言いかえれば批評家たる自覚を持つにいたった批評家を先の用例にならって近代的批評家と呼べば、彼は読者の特殊なかたちであって、「読者」たる自己を意識せずにはおれないけれども、それ以上にまず彼なりの方法論をもって作品に対峙することをやめない。それゆえに批評家は近代的読者よりもさらに作者と読者との分離がすすんだ新しい読者であると言えるかもしれないが、この「読者」は実に作者によく似た顔つきをしている。
俳句の世界には批評家が不在であると、これもよく言われる事柄の本当の意味は、俳句読者という作り手ならざる自己を自覚しようのない読者を脱することは、俳句を作るかぎり不可能であるということにほかならないし、そのこと自身は意識されないこともない。『もともと実作者である私には人さまの作ったもの、自分の作ったものというような冷静なけじめは、はじめからないのである』とは魚目さんが「鳥道」特集に寄せた文章のなかの言葉だが、そのあたりの消息をよく伝えている。
批評家が近代的読者のカテゴリーをも逸脱したゆえんが彼が持つにいたったペンにあることは明らかで、作者と分離することによってその意味を深めた読者がまた表現者となることで枠をひろげたことも驚くにはあたらない。選は創作であるという。これを言いかえれば批評は創作であるということになるけれども、はたしてヴァイスヴァーサと言えるかどうか。そう簡単にはゆかないことはいつも経験しているのである。
干柿の渋飛びゆくか神の山 道代
読者が読みとる意味と作者が前提としている意味が異なることには何の不思議もなくて、それを作者と読者のコンテクストのずれととらえることも可能だが、ここでは言葉の伝達の際に生まれる作者のものでも読者のものでもない、イメジとして考えてみたい。読者の意味と作者の意味の間の断絶が非常に大きい場合には媒介者のイメジとして明確な像を結ぶことはできない。実際こういうことはしばしば経験することであって俳句読者は作者と読者が未分化の状態にあると言っても、作者群と読者群というものを考えれば俳句読者とはその二つ群がまったく重なることを言うだけで、群を構成するひとりひとりの俳句読者はときとして非常にかけはなれたコンテクストを持つことがある。その場合作者が意図したものとは違ったイメジが読者に伝達されるということすらなくて、読者は何を読んでいるのかわからなくなり伝達という言葉の意味もあやしくなってくる。作者から読者への回路が断絶してしまえばそれは或る意味で答えのはっきりしたことであるけれども、作者の意図はよくわかるのだけれどもそれ以上どうと言うことがないということがよくある。たとえば散文で言えばつまらないことが何故詩で言うときにそれがまさしく詩になるのかという疑問について作者と読者の間に大きな断絶があって、その断層を冷静にうけとめれば次のガストン・パシュラールが「空と夢」で定義した想像力というもののひとつのかたちがなじみやすいものになってくる。
いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを否形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ。これを読者の想像力と呼ぶことは簡単であって、読者の想像力から逆に作者の想像力を規定することは普通気づかれないが広くおこなわれていて、俳句にかぎる必要はべつにない。
澄む水や拡大鏡を書に挟み 文子
メタファーを意識するということは、目の届く範囲の俳句読者においてはおこなわれていない。意識されないと言ってそれが俳句にメタファーがないということにはならなくて、アリストテレスの「詩学」においては今日イメジという言葉が使われるのと同じ具合にメタファーという言葉を使っているから、詩とメタファーは切っても切れないものであると言えそうである。もちろんメタファーを意識したからといって詩が見えてくるわけではないけれども、比喩的表現がイメジとして定着するときに詩の詩としての力がはたらくのだから、生きいきしたメタファーの世界が俳句が詩としての活力をとりもどすところと言ってよい。
メタファーが生きいきしているとはどういうことが考えてみれば、イメジの補償作用とも言うべきはたらきに気づく。メタファーは使い古されることによって死ぬが、それが新鮮であるときには却って読者とのコンテクストのずれが原因して像を結ぶことがなく、読者の側のコンテクストを充当することによってはじめてイメジが生まれる。これはまた俳句読者の特質のひとつであるけれども、このコンテクストの充当の際に共通のセオリーがあって俳句を作らない人に対してわかりにくくしている。たとえば季語であって、そのとき季語は新鮮なメタファーなのだが、俳句のコンテクストに不慣れな人にはどうやっても解けない合せ錠のようなものとなっている。つまりイメジの補償作用がはたらくためにも、俳句の場合には意味の伝達にそれほど重きをおかないからこそ、その回線が強固なものであることが必要になってくる。もちろんこれは俳句の理解のためにということであって、俳句読者の目的が俳句の意味を知ることでないのは言うまでもない。
≫解題:対中いずみ
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