2019-02-24

空へゆく階段 №5 解題 対中いずみ

空へゆく階段 №5 解題

対中いずみ

「俳句読者論」②である。ガストン・パシュラールやアリストテレスなどが出てくると筆者にはもうお手上げであるが、こういうものを喜んで下さる読者もきっといるだろう。
ちなみに裕明はまだ書き足りなかったようで、本号の編集後記には次のような文章を記している。

ことばに対してそれぞれわたしたちはプラスやマイナスのイメジを持っていて、それは必ずしも正当なものとはいえないようです。たとえばレトリックということばは往々にしてマイナスのイメジを持たれがちです。もちろんレトリックだけでははじまらないわけで、レトリックは文飾とは別のものだということを知らなければなりません。「わたしからレトリックとペダントリーをとれば何が残るのか。」と言った人がいましたが、一面から見れば人はそれぞれにレトリックとペダントリーから構成された有機体であるのですから、レトリックを自分の認識のために磨くことがまず大切なようです。
 わたしたちのレトリカが何からはじまるのかを考えれば、名を忌むという、これは人間のことばの歴史の底流に常にあったコンヴェンションを意識することに思いあたります。たとえば「もののあはれ」というときのもの(…)です。
 ものを考えるときわたしたちはことばで考えるわけですが、そのときに名を忌むということを同時に行っています。ことばが頭の中を歩きだして表現を得るときにことばの歴史を貫通してしまうことは興味ぶかく思われます。
この頃つぎのような句が詠まれていた。

  歯朶を刈るはじめをはりのつまびらか  裕明

  七種の文書きなほし書きなほし  同

  冬桜そこに失せものあるごとく  同


田中裕明 雑詠鑑賞

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