【週俳1月・2月の俳句を読む】
じっと待つ
三宅桃子
五十嵐箏曲「たまの嘘」を拝読。日常詠と侮るなかれ、読み終えたころには体の芯がヒヤリとしている。作品全体を通して見えてくるのは、老成していて、端からあきらめている青年の姿だ。救いなど求めてもいない。「ああ、なんだか悲しい。」第一印象は、そう思った。しかし、何度か読み返すと、ところどころに見え隠れする童心のかけらと、少年が冷えた目をもつ(大人になる)に至った過程の記憶。ああ、この青年は、もはや完成された目の奥に、甘く、やわらかい、動的なものを保ちつつ、今でも何かをじっと待っているのかもしれない。
早起きやすでに割られてゐる氷 五十嵐箏曲
早起きをして、真新しい鏡のような氷を見たかったであろう青年のささやかな夢は、そうしたことを期待しないであろう他人の通勤靴で非情にも踏み砕かれている。青年の心とともに。少年のときの記憶かもしれない。詠嘆の「や」が、早起きという努力の報われなさを余計に増幅して、逆説的なこの句の演出に一役買っている。
節分の豆は本気で投げていい 同
殴り合いの喧嘩などしたことがない少年が、いきなり鬼に豆を投げろと言われて躊躇している景が浮かぶ。ああ、この(節分の)豆は本気で投げていいのだ。と少年が理解する過程が物悲しい。切れのない読み下しの形式が、少年の心の中のつぶやきのようである。
なまはげが来たら今でもたぶん泣く 同
ここで、泣くというのが意外であった。淡々ときていた頭3句から効果的に転調している。頭3句は少年時代の記憶を回想しており、ここで青年となったのではないかと思う。「今でも」で、すでに青年であることを読者に匂わせるが、「泣く」で、センシティブな童心を思わせる。そのねじれが句に深みを持たせている。文体としては、意識的に切れを設けない作者である。
「病的に素直」が梅の花言葉 同
季語として梅が効いているのかと言われると微妙であるが(桜よりはよいのかもしれない)、「病的に素直」が季語以上の求心力をもったことばとして機能している。なんだか自嘲的で、ギクリとしてしまう一句である。
皮むきのアスパラの筋透けてゐる 同
皮をむいた後のアスパラの筋を見つめて、どうしようというのか。「筋」であるから、アスパラ本体ではなく、剥かれた後に丸まっている筋であろう。ただ事と思えるが、この作品の中でこうした一句がでてくると、妙に期待感を抱いてしまうから不思議だ。ただ事をただ事として受け止めるという行為は、現実を肯定的に受け止めているように感じるからであろうか。
流氷をたぶん一度も見ずに死ぬ 同
私は流氷を見てもいないのに面白がって俳句にしているが、そのようなたやすい俳句に対する作者のアンチテーゼのようにも感じる。「流氷、流氷ってなんだ、見てもいないくせに。自分は流氷なんて見ずに死んでやる。だって、見ていないし、これからもきっと見ることなんてないのだから。」作品を通してみても、実感のわかない季語は使用しない作者であるだろうことが想像できる。
雪解けの雪は汚いから嫌ひ 同
季語を徹底的に自分に引き寄せ、甘い感傷に流されない作者である。
タイトルとした「じっと待つ」景が浮かんだのは、意外にも、「皮むきのアスパラの筋透けてゐる」の一句によるものである。身の奥から滲み出るような期待感は、現実にプラスし、美化した地点ではなく、プラスマイナス=ゼロの地点にこそあるのではないか。待つという行為はそれだけで肯定的であり、それだけで能動的である。俳句において何をどう詠むかといった話にも発展しうる作品であるように思った。
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