【空へゆく階段】№10
冷静さを欠きつつ
田中裕明
冷静さを欠きつつ
田中裕明
「俳句」1986年6月号・掲載
繃帯の喉にゆるやか卯波寄せ 波多野爽波
先生の句集というのは不思議なものだ。
読んでみると知っている句ばかりが並んでいる。この句は京都の句会で、この句は大阪の句会で出たもの、と思い出しながら読んでいると、だんだん冷静なところが少なくなってくる。
その点では自分の句集を読むのに似ていて、ただその読後感がずっと爽やかである。
たとえば前にあげた繃帯の句は、同じ句会で、
手に軽く握りて鱚といふ魚
という作品が出されて、こちらのほうは書きとめたけれども、繃帯の句は見逃してしまった。それがいまは気にかかる。
自分の句集がある期間の自分の経験の記録であるのと同じように、骰子という書名のこの句集もわたしにとって昭和五十五年から五十九年までの記録である。文藝とのそんなかかわり方が正しいのか間違っているのかよくわからない。そういう判断ができるほど、冷静にこの句集にむかうことができない。
句集はたぶん歴史にはなりえないのだろう。句集にはたしかに昨日の自分がいるけれども、昨日の自分は今日の自分と同じ顔をしているのだ。歴史はそんなものではない。
繃帯の句は表現にやや破綻に近いものがある。しかも崩れそうでいて崩れない。かたちの整った作品の多い『骰子』の中ではやや趣をかえた句ということになるのだろう。
言葉と長い間つきあってきた人間が、言葉にたいしてたちむかうというのではなしに、言葉と仲が良くなってしまった。そういう気配がある。
風俗俳句という造語を『骰子』について考えてみる。風俗小説といえばどうも表面的な現象という局面でとらえられがちで、丸谷才一さんが以前その風俗蔑視をただしていた。同じように風俗俳句というのも、それは精神風俗すなわち倫理までをふくむひろい領域において風俗という言葉を考えている。風俗小説が近代的な市民社会を前提としていたのと同じことで、『骰子』の作品もまた市民社会を背景としているのだろう。ただわたしたちはまだ成熟した市民社会をもちあわせていないので、作品はかつてあった洗練あるいは日向にややかたむくことになる。
どうも冷静でいられなくなる。先生の句集というのは不思議なものだ。
≫解題:対中いずみ
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