【歩けば異界】②
渚町
柴田千晶
初出:『俳壇』2017年4月号「地名を歩く」
熱海市内の中心部を流れる糸川。1月中旬には川べりの58本のあたみ桜が満開になる。濃い桃色の花びらは厚ぼったい。桂信子の〈春の夢あまたの橋を渡るかな〉を呟き、御成橋…新柳橋…ドラゴン橋…桜橋……と、糸川に架かる短い橋を渡り、左岸と右岸を行き来する。橋の上では大勢の観光客がカメラを構えている。目白が賑やかに飛び交う遊歩道を下れば、前方に眩しい熱海の海が見える。
この糸川の右岸は、かつての赤線地帯、中央町である。新柳橋に近い村越魚店が異界への入口。店先の発砲スチロール箱には、鮟鱇、鋸鮫、鱏、海鼠などの珍しい近海魚が並ぶ。鱏の腹に張り付いた花びら。その脇の路地をゆくと、ふいに風景がざらついて見える一画に出る。バーやスナック、居酒屋が並ぶ此処が、旧糸川カフェー街か。
花見客の喧噪もここまでは届かない。娼家を思わせる明り取りの丸窓や、煤けた壁に鷹の美しい装飾が施された建物もある。黄土色の壁の二階家に売家の札が掛かっている。ここもかつての娼家だろうか。ガス燈が角角に立つこの路地に、今も白い手に招かれた男たちが迷い込む。
売春防止法の施行により、昭和33年に赤線が廃止されると、中央町は表向きには飲食店街となり、海に近い渚町に青線が生まれた。糸川の下流を埋め尽くす落花のように、赤線の女たちもこの渚町に流れ着いたのだろう。
風俗店が目立つ渚町の本通り、ナギサ・サンロードを行けば、海岸通りへ抜ける細い路地に気づく。渚発展会の看板が立つ寂れた路地に、ちょんの間を彷彿とさせる間口の狭い飲食店が並ぶ。スナックの二階の窓に干された蒲団、質屋の軒下で寝そべる妖艶な白猫、鈴蘭の形をした街灯、ここはまだ昭和だ。
爛れたような桃色の花びらの群れが、夜の渚町に吹き寄せられ、男の肩幅ほどの路地を埋め尽くす。どこからか現れた老婆は、糸川のユリコと名乗る伝説のポン引きだ。もうこの世にはいない老婆に腕を引かれて行けば、スナックのうす昏い間口に、ポール・デルヴォーが描く裸婦に似た青白い女が、ぼうっと立っている。
花びらのときに入りこむ蒲団部屋 桂 信子
著者撮影
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