2019-04-14

【句集を読む】 深さの図学をめぐるスケッチ 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む  小津夜景

【句集を読む】
深さの図学をめぐるスケッチ
岡田一実記憶における沼とその他の在処』を読む

小津夜景

初出:『らん』第84号(2019年1月)

ごく限られた素材によって、作者の小宇宙が図案化された句集。岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(以下『記憶沼』)を読んで、そんなことを思った。

なかでも目につくのが句集のタイトルとも関係する「水」にまつわる句と、陽/火/灯などの様々な「ひ」をあしらった句である。が、今回触れるのはそのどちらでもなく、次のような作品群だ。

  蟻の上をのぼりて蟻や百合の中

  万緑の内側に幹ありにけり

  その中に倒木を組む泉かな

  みづうみの芯の動かぬ良夜かな

  根を通ふ水も深雪の底ひかな

中/内/奥/底/芯。『記憶沼』では、この種の把握によって世界の〈深さ〉を図案化してみせた句が、ゆるやかなペースでくりかえしあらわれる。

  森の中森の茂りを透かし見る

  木を叩くことも朧の影の内

  玻璃越しに雨粒越しに虹立つよ

  蠛蠓の芯を残さず失せにけり

  花菜売る店の奥処に暮しの灯

こうした、なにげない日常を解きほぐし〈深さ〉の図案へと整序し直す〈世界の捉え直し〉はどうして起こるのか。どうやらそれは、作者が何かを見るとき、対象と同時におのれの意識をも見る(=何を見ているのかをおのれに問う)ためのようだ。

  細胞に核の意識や黴の花 

  目の合へば思惟の光れる金魚かな

  口中のちりめんじやこに目が沢山

  見るつまり目玉はたらく蝶の昼

前半2句では「意識」と「核」、「思惟」と「光」など、認識の哲学にまつわる語が同居する。後半2句では自分の口の「中」に「ちりめんじやこ」の目を発見したり、「目玉」そのものを掘り下げつつ「見る」ことの定義を思い巡らす作者がいる。このように『記憶沼』においては、見ることと内省とのかかわりが激しく明からさまだ。

  芯のなき赤子の首の昼寝かな

  首といふ支へ長しや死人花

  端居して首の高さの揃ひけり

  飛ぶ鴨に首あり空を平らかに

「首」への目線も面白い。どうやら首は、作者の深層の水準器と共鳴する「芯」のようなもので、それによって世界を整序的に把握し得る可能性をいつもさぐってしまうらしい。

  火蛾は火に裸婦は素描に影となる

『記憶沼』における様々な「ひ」が知性の光(=見る力)の喩を内包するのではないかといった想像をここで詳しく検討する余裕はないけれど、この句の「裸婦」が「火」のモチーフと並ぶことで、まるで光明に照らされて「影」(深層)をあらわにしたかのように演出されていることは疑いない。

このように、作者の目は〈深さ〉の図学を探究することにいささかの余念もない。とはいえ見ることは、本来割り切ることのできない曖昧で不分明な経過だ。見れば見るほど世界はその目をのがれ、見る者の立つ場所さえも危うくする。その意味で私は、次のような句をいっそう興味ぶかく感じた。

  夢を木の咲いて軋めく籐寝椅子

  海を浮く破墨の島や梅実る

日常語であれば、掲句の助詞「を」はどちらも「に」となるだろう。だがそれを「を」とするとき、見るという内省的行為が、対象の図案を万華鏡のように変容させつつ自己の中に不断に生起する運動であることが思い起こされる。つまり、掲句の「を」には、見ることの不分明な経過が痕跡化しているのである。

夢幻と現実は対立するものでなく、お互いを織りなすものであるというあたりまえの事実。そのことがおのずと呼び覚まされる、奥深い記憶の沼の光景にとても似つかわしい句だと思った。


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