2019-06-09

【空へゆく階段】№14 夜の形式 田中裕明

【空へゆく階段】№14
夜の形式

田中裕明
「俳句」1982年6月号・掲載

以前(ほんとうにずいぶん昔のことになってしまった)、夜の形式ということを考えていたときがある。芸術における形式と内容について思いをこらしていたある夜に、ふと夜の形式という言葉が浮かんでしばらくのあいだ頭を離れなかった。夜の形式に対して昼の形式という言葉もあり、こちらのほうはわかりやすくて、たとえば何人かの印象派の絵を思いうかべればよい。あるいはバロックと呼ばれる音楽のあるものは聞いていて森の中にぽっかりと日向があってそこに座りこんでいるような気がする。では夜の形式とはいったいどのようなものであろうか。

地図を眺めていると自分が何を見ているのかわからなくなることがあって、そういうときには海岸線をたどるためにおろした指がもう動かない。音楽をそういうふうに聴くこともある。部屋を暗くしてレコードをかけて座っているといつのまにか雨の音を聴いていて、それでカーテンからのぞくと日が暮れていたりするから、そんな夜は眠れない。夜はしだいに明けてゆくのだけれども、時間がそちらの方向にだけ流れていると思うのはおかしなことで、今日見た朝の空と昔見た空が寸分かわらぬ顔をしているのは時間が逆流していることの証にほかならない。こう言えば夜の形式というのはかなり複雑なもので、それは時間と非常にふかい関わりをもっている。だからさっき昼の形式としてあげたバロック音楽も、深夜ひとり机にむかって目瞑る男が書いたと考えることができる。床の間がつくりだす薄暗い闇を、またそのほかの日本間における陰翳を賛えていたのはさて誰だったか。とにかくこのように言われる日本の座敷は午すぎの外の光を障子からとりいれてはじめて、その明暗のあいまいさを時間の久しさに転化させるのだけれども、夜の形式と言ってよいかもしれない。

ほんとうにずいぶん前にも考えていたことなのだが、いま手にしているのは夜の形式ではないようだ。


解題:対中いずみ

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