2019-06-23

BLな俳句 第22回 関悦史

BLな俳句 第22回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第157号より転載

藪巻や美童攫はれたるはなし  能村登四郎『長嘯』

「藪巻」が冬の季語で、「雪折れのおそれのある低木や竹などを,むしろや縄で巻いて損傷を防ぐもの」(『大辞林』)。

「美童攫はれたるはなし」の「はなし」は「話」とも「は無し」とも読めるが、後者は特に詩趣を形成することもなさそうなので「話」と取っておく。

この「話」がどういうものかは詳らかでないので、美童が天狗や何か怪力乱神の類に攫われたのか、それとも単なる稚児趣味をめぐるトラブルかも判然としないが、伝聞の「話」であるという間接性を挟んだ美童消失の悲劇とだけわかれば、さしあたり用は足りる。間接的でしかも断片的で唐突であるがゆえに、美童消失のイメージは淡くもなり、また一面鮮やかにもなるのである。

目の前にあるのは藪巻である。木の本体が隠された状態であることが、「攫はれた」の消失のイメージに通底する。また冬の季語であることから、攫われた美童がどことも知れぬ場所で凍えている可憐な図を連想することもできる。藪巻そのもののように、美童が縄で縛められている図まで連想するとなると、少々意味に引きつけた読み過ぎということになろうか。

ただ縄やむしろで巻かれただけの木が、「美童攫はれたるはなし」という一見実のないフレーズと取り合わされると、たしかにそういうことがあったのだと証言している謎めいた物件のように見えるところが面白い。


坊主めくりの引き当てし僧うつくしき  能村登四郎『長嘯』

百人一首を諳んじていない人でも、簡単にできる遊び方が坊主めくりである。

絵札の山を囲んで座り、順番に札を取っていって、坊主が出たら持ち札を全て捨て、姫が出たらそれをまとめてもらえるというだけのもので、最終的に持ち札の枚数がもっとも多かった者が勝ちとなる。

つまり坊主の札はハズレで、せっかくそれまで溜め込んだ札を手放さなければならないのだから、普通ならば顔をしかめるところなのだが、登四郎の句では、なぜか絵札の僧の美貌に見とれるということになるのだ。

うつくしいとはいっても百人一首の絵札の肖像は、かなり簡略化された描き方なので、たかが知れているはずだが、そんなところにも登四郎の美男センサーは反応してしまうのである。

もともと登四郎は僧形が好みらしくて、知られた句〈青滝や来世があらば僧として〉では、自分もそうなりたいという憧れが示されているし、『長嘯』のひとつ前の句集『菊塵』には〈よき僧となり紅顔の冬も失せず〉という句もある。こちらには「大畑善昭」という前書きがついている。「沖」同人の俳人である。「紅顔」は少年によく使われる形容で、それが僧に使われるという意外性が生気を生んでいる。

登四郎の僧形への関心は、熾烈な求道といったものではなく、まず外見が好みだということであり、その向こうに清冽な精神性がほの見えるのがエロティックであるということのようだ。この嗜好性は、現在のコスプレ文化に近いところがあるのではないか。


男顔完璧なりし神輿舁き  能村登四郎『長嘯』

こちらも和モノの句。

「神輿舁き」というと、神輿を担ぐ人と見物から成る群衆全体の騒々しい活気に注意が行きそうなものだが、ここでも登四郎の視線は、担ぎ手の一人の「男顔」にただちに釘づけになっている。周りの騒がしさなどもはや「男顔」の背景に過ぎない。文字通りのモブである。

中七の「完璧なりし」というのが句としては工夫のしどころか。

「美しかりし」では神輿舁きの活気が消えてしまって、スタティックになる。「完璧」はこの場合、周りの活気も背景として有機的に巻き込み、それと互いに照らし合うようにして「男顔」を際立たせる措辞となっている。


澄める夜の澄みの極みに男坐す  能村登四郎『長嘯』

一連の僧侶ものなどの延長線上というべきか、人格的なものを伴う格好よさが描かれた句で、男が坐っているだけでほれぼれとしている感じが伝わってくる。

言葉の並び順としては「澄める夜」が先に来て、そこから次第にクローズアップしていくように「男」が現れている。「澄み」を煮詰めていった結果「男」が出現するという順番で、「男」が澄む秋そのものの精のように見え、それが「男」のキャラクターをも規定していくのだが、実際の認識の順番としては、まず坐っている男が真ん中に来て、それから周りの秋の「澄み」へと注意が広がっていくはずで、ここでも「神輿舁き」の句と同様、男とその周囲との照らし合いがかたちづくられている。

この「男」も、キャラクターの方向ははっきりしていて、高倉健か誰かのような寡黙で重みのある、絵になる人物であることはわかるが、一方、登四郎句に現れる男のつねとして、内面性は希薄である。

内面とは発語されなかった言葉である。この「男」がものを言うことがあるとしても、それが句の語り手との間に決定的な摩擦を起こすことはおよそあり得そうになく、「男」は句の語り手の理想のうちにとどまるのである。その意味で、この「男」には内面はあまりない。

早くいえば「男」は美少女ゲームのキャラに近い、ご都合主義の空想によって成り立っているものとも見えるのだが、にもかかわらず登四郎句が平板な閉域をかたちづくってしまわないのは、その奥行に、季語によって形成される審美的に整えられた自然があるからなのではないか。

登四郎句の場合、単に好もしい男と季語が組み合わせられているということではなく、「男」そのものも、季語の宇宙と相互に浸透しあっているとでもいうべきか、内面が希薄であることで、季節、季語の美を体現する存在になることが可能になっているようだ。

これは季語そのものの萌えキャラ化といったこととは違う。季語と「男」とが、それぞれ違うものでありながら相互浸透を起こす、そのはざまの領域に登四郎句のエロスがあるのだろう。


竹皮をきのふ脱ぎたる男肌  能村登四郎『長嘯』

「竹の皮脱ぐ」が夏の季語。「男肌」は皮を脱いだばかりの竹のみずみずしい精悍な肌に対するものの喩えであるらしい。男のような肌というわけである。連体形の「脱ぎたる」に「男肌」が直に続いているのだから、そう取るのが自然だ。

客観写生であるかはともかく、一応写生句の枠内で鑑賞できる句ではある。

しかし「男」の一字の介入が、何やら読者の心をざわめかせる。べつに「男」の一字を入れなくても、例えば下五を「素肌なり」などと変えてしまっても、「肌」だけですでに暗喩になってしまうので、人体じみた色気は出てしまうはずなのだ。竹から女性の容姿を連想する人は少ないだろうから、それだけでも一応用は足りるのである。

それでも、この句には「男」が入った。

俳句には、連体形で繋がっていても、意味上の切れが入るというタイプの作品もあるので、〈竹皮をきのふ脱ぎたる/男肌〉と切ってみることも可能である。この場合、介入してきた「男」は喩えではなく本物となる。代わりに「竹皮をきのふ脱ぎたる」の方が「脱いだような」という暗喩的な位置にしりぞくことになる。

とはいうものの、この句の言葉のバランスから見て、「竹皮をきのふ脱ぎたる」が全て「男肌」を修飾するためだけの、ものの喩えと取るのは少々無理がある。季語が実物ではなくなってしまう点も、句を弱らせる。

昨日皮が脱がれたばかりの竹のイメージと男肌のイメージは、どちらがどちらの喩えなのかを曖昧に揺れ動かす余地を残しつつ、皮を脱いだ竹の真新しい幹を立ち上がらせる。いやむしろ、その真新しい竹の幹の両側に、皮を脱ぐ所作と、男肌がまつわる。この両側にまつわる二つのイメージのたゆたいこそを、この句の魅力と取るべきだろう。


白褌の一団に締る海開き  能村登四郎『易水』

褌である。

何というか、ここまでつき合ってくると、いつもの登四郎の世界という気がする。

大磯などで、海開きの際に、神輿の海中渡御という行事があるので、それを詠んでいるのかもしれないのだが、さしあたり目が行っているのは神輿や神事ではなく、「白褌の一団」であり「締る」である。

いつもの登四郎の世界とはいうものの、この前の句集『長嘯』には〈すさまじや肉体枯れてなほ男〉〈真裸の瘦てゐるだけ耶蘇に似て〉といった、自分のものらしい身体の老いと衰弱にかえって男性性を見出す句も収められているので、その後にこうした句が詠まれている辺り、好みのものへの執心が生の支えと華やぎになっているようだ。

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関悦史 
カルナヴァル忌


夏草が踝に触れ男子と知る

姫と呼ばれて男子の細さ更衣

水かけまくるは賛美ぞプールの男子同士

カルナヴァル忌の聖セバスチャンこそ夏料理
  カルナヴァル忌=金原まさ子の命日 六月二十七日

梅雨雷夢魔の青年らに拉がる

照り返す汗の胸板パソコン点け

アナル既に縦割れの兄紺浴衣

片割れすでに歯磨く裸身青年らの後朝

運動会のダンス照れあひ男児同士

少年やラガーの体見つめゐる

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