時評のようなもの6
ふたたび通俗性について
上田信治
前回の時評につづけて、通俗性について、もうすこし書いておきたい。
>> 時評のようなもの5「それは通俗性の問題ではないか?」
今回は、いくつかの平成俳句の代表作について、自分の考える通俗性とはどういうものかを示しつつ、論じるつもりだ。
※前記事のツイッター上での反響については、まとめを作った。リンクを置いておくので参照されたい(まとめの合間のコメントは、すべて上田によるもの)。
>> togetterまとめ「俳句とジェンダーと通俗性」(「俳句」2019年6月号・若手特集と神野紗希時評、「週刊俳句」6/1号・上田信治時評をめぐって)
0. 通俗批判はむずかしい
ところで、芥川龍之介と谷崎潤一郎が、小説の純粋性と大衆性をめぐって、論争を繰り広げたことがあった。
火をつけたのは芥川で、まず、雑誌「新潮」(昭2・2月号)の合評会において、
「僕は谷崎氏の作品に就て言をはさみたいが、重大問題なんだが、谷崎君のを読んで何時も此頃痛切に感ずるし、僕も昔書いた『藪の中』なんかに就ても感ずるのだが話の筋と云うものが芸術的なものかどうかと云う問題、純芸術的なものかどうかと言うことが、非常に疑問だと思う」
と発言する。
それに対し、谷崎が「饒舌録(感想)」という「改造」誌上の連載(昭2・3月号)で、
「芥川君の説に依ると、私は何か奇抜な筋と云うことに囚われ過ぎる、変てこなもの、奇想天外的なもの、大向うをアッと云わせるようなものばかりを書きたがる。それがよくない。小説はそう云うものではない。筋の面白さに芸術的価値はない。と、大体そんな趣旨かと思う。しかし私は不幸にして意見を異にするものである」
「筋の面白さを除外するのは、小説と云う形式が持つ特権を捨ててしまうのである」
「それから「俗人にも分る筋の面白さ」と云う言葉もあるが、小説は多数の読者を相手とする以上、それで一向差支ない。芸術的価値さえ変らなければ、俗人に分らないものよりは分るものの方がいい。妥協的気分で云うのでない限り、通俗を軽蔑するなと云う久米君の説(文芸春秋二月号)に私は賛成だ」
「沙翁でもゲーテでもトルストイでも、飛び抜けて偉大なもので大衆文芸ならざるはない」
と、応ずる。
それに対し芥川は「文芸的な、余りに文芸的な──併せて谷崎潤一郎氏に答う──」(『改造』昭2・4月号)と題する文章で、冒頭から
僕は「「話」のない小説を最上のものとは思っていない」けれど(ということを三回繰り返し書いたあと)、しかし、そういう小説は、
「若し「純粋な」と云う点から見れば、──通俗的興味のないと云う点から見れば、最も純粋な小説である」
と書く。さらに、小説に「筋がある」ことは問題ではない「通俗的材料」を使うことも問題ではない、と念入りに予防線を張ったあと、
「僕が僕自身を鞭つと共に谷崎潤一郎氏をも鞭ちたいのは(…)その材料を生かす為の詩的精神の如何である。或は又詩的精神の深浅である(…)僕が谷崎潤一郎氏に望みたいものは畢竟唯この問題だけである」
と書いた。
こたえて谷崎は、次号の「饒舌録」で(芥川の「詩的精神」うんぬんには触れずに)
「ぜんたい小説に限らず有らゆる芸術に「何でなければならぬ」と云う規則を設けるのは一番悪いことである。芸術は一個の生きものである。人間が進歩発達すると同時に芸術も進歩発達する。予め「どうでなければならぬ」と云う規矩準縄を作ったところで、なかなかそれに当て篏まるように行くものでない」
「「話」のある小説ない小説もつまりはそれで、実際人を動かすような立派なものが出て来ればいいも悪いもあったものでない」
と書く。
引用はすべて『文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録 ほか 芥川vs.谷崎論争』(講談社学芸文庫)より
どう見ても、芥川の分が悪い。谷崎の反論は「通俗何が悪い」論として、今日これからでもじゅうぶんに通用する内容だが、芥川は、腰が引けまくっていて、当初の「話の筋が芸術的かどうか」という立論を、個人的な嗜好の問題にして、放棄してしまっている。
これは、谷崎のケンカの強さ、芥川の弱さというよりも(それもあるけれど)かくも「通俗」の否定はむずかしい、ということなのだ。
●
通俗性を作品から除去すべきものとすることは、負け筋である。
その理由を「通俗的に」説明するなら、どだい芸術というのは人を丸ごと感動させるもので、その丸ごとには、とうぜん通俗につうじる心性が含まれているからだ。
あるいは、もうすこしましな言い方をするなら、芸術というものの成立の基盤に人間の持つ共感の能力がある以上、共感や移入を引き起こすことは芸術の基本的構成要素の一つであり、それを排することは、単なる趣味嗜好、あるいは方法の選択にすぎない、と言えるからだ。
しかし、自分は、表現行為には個々人の趣味にとどまらないものがある、と思っているから、そのことを問題にする。
1. 死ぬときは箸置くやうに草の花
というわけで、言っておいたほうがいいと思うから言うけれど、小川軽舟の〈死ぬときは箸置くやうに草の花〉は、やはり通俗的だと思う。
「死ぬときは箸置くやうに」というフレーズが、誰か一個人のつつましい祈りであるなら、それを否定することはできない。
しかし、この一句を、真率な思いの結晶物として受け取るには、「草の花」が飲み込みにくい。
この季語は、ちょうどよすぎる。ちょうどよすぎる季語は、書き手が、既にその願いの外に出てしまっていることを疑わせる。そのため、せっかくの泣けるフレーズが「ウケ狙い」に見えてくる(配合という方法を否定しているのではなく「草の花」は、手つきが見えすぎて、内容にふさわしくないという話だ)。
そもそも「死ぬときは箸置くやうに」は、ごく常識的な道徳の範囲内から生まれたフレーズで、書きようとしてはコピーライティングに近い。
もちろん俳句には、言っていることの普通さとは別項の価値を生じるということがあって、たとえば夏目漱石の〈菫程な小さき人に生れたし〉には、それがある。
「生まれたかった」ではなく「生まれたし(たい)」という時制の狂った(つまり今の自分をすべて抹消して、という)言明の突き上げるような唐突さゆえに、その真実性を疑い得ない。
逆に「草の花」は「つつましさ」「平凡な人生の美しさ」という道徳的価値を迎えに行っている。生成し流動すべき意味を既存の価値にピン留めするという予定調和をやっている一点で、この句は、大向こう受けの句であると思われる。
※小川については「5.草間時彦と小川軽舟」で、もうすこし書く。
2.共感性・物語性と、通俗との関係
俳句に、物語性や共感性があることが、イコール通俗かといえば、そんなことはない。
久保田万太郎の〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉や、福田若之の〈ヒヤシンスしあわせがどうしても要る〉を、通俗だと切って捨てるほどの純粋主義には自分も与しない。
「いのちのはてのうすあかり」は、たしかに俗謡の範疇のフレーズで、誰にでも理解できる内容と、誰にでも理解できる美しさをもっている。しかし、この湯豆腐の美しさはこの句一回限りで二度とないものだ。いのちのはての「うすあかり」が豆腐の白の奧に見出されるようであるのは、「はて」という言葉のはたらきによるもので、この言葉が、ただじっと見つめるということをしている主人公を、浮かび上がらせている。その全体を冬の暗夜がとりまいていることも見逃せない。繰り返すけれど、ほんとうにこの湯豆腐は美しい。
「しあわせがどうしても要る」は、一見、四畳半フォークにもありそうな平凡な感慨に見えるけれど、この「要る」は「しあわせ」に対応する動詞として、違和感がありすぎる。しあわせは「ほしい」とか「願う」という動詞をとることが多いけれど、「要る」という、まるで当座の生活費が必要だというような、ねじを回すためにねじ回しが必要だというような、対象の局所的な不存在を前提とした言い方が、この人の「今」がひどく切迫しているということを、浮き彫りにしている。しあわせをねじ回しのような具体物として必要としてしまうこの人は、今、ここにない「しあわせ」というものが、まったくイメージできていないのだ。しかも、この「ヒヤシンス」部屋で水栽培でまだ咲いていないんじゃないか。もちろん、外で花壇で咲いている花を前に切迫している人を想像することも可能だけれど、それは異様すぎるだろう。つまり、この人は、当面の安全の確保された明るい室内で、心理的に極度に切迫している。この切実さは、そう簡単に見出せるものではない。
どちらの句も、歌謡曲的な共感性をもつフレーズをベースに(一次的「内容」に)しているけれど、俳句として立ち上がるときに、ベタな内容の底を抜くようにして、それを、誰にでも分かり、かつ、とんでもなく深いという高みに引き上げ、新たな価値を生み出している(このようなことは、「読める」人には一目瞭然だろうし、「読めない」人には百万言を費やしても伝わらないのかもしれないが)。
ドラマチックな出来事や背景、感情に対する共感といった、俳句の外でも「値段」のつくような「内容」を持つ俳句がある。しかし、もし、その句が、その一次的「内容」を超える何かをつけ加えることに失敗していたら、その句は「内容」に(あるいは俳句外の価値に)寄りかかっている。
そういう句を、自分は通俗的だと感じる。
谷崎潤一郎は芥川への反論に「芸術的価値さえ変らなければ、俗人に分らないものよりは分るものの方がいい」と書いた。
しかし、俗人に分かるような俳句が、俳句ならではの価値を持つためには、十七音のなかでもう一勝負しなければならない(それは、映画やマンガと異なる、俳句というレンジの狭い方法特有のことだ)。成功すれば大名句になり、失敗すれば駄句になる。
つまり、通俗的俳句は、芸術的に「オッズが高い」。
3.「分かる」俳句のあやうさ
自分は、以前、津川絵理子の〈おとうとのやうな夫居る草雲雀〉について、
「分かる」句は、俳句がすでに形式の一部としている「分からなさ」によって、その詩的価値を支えられている。たとえば、津川の「おとうとの」のような句は、そこに提示されている日常的価値が俳句形式の謎を圧倒してしまっているために、詩的価値に達していないように、自分には見える」
と書いた(>> 週刊俳句545号「時評のようなもの2「分からない」俳句 田島健一『ただならぬぽ』を中心に」)。
では、この句がまったくの通俗かというと、そうは言い切れないのは「草雲雀」に微量の謎があるからで、朝鈴という異名がある朝早くかぼそい声で鳴く虫を、この二人は部屋で? それとも早朝の草原のようなところで聞いているのだろうか? あるいは……と考えていくと、そこに淡い性的連想が働いて、面白くなってくる。大木あまりの〈寒月下あにいもうとのやうに寝て〉が響かせているものもあると思う。
ただ、あらかじめ佳きものとしてある草雲雀の声の繊細さが、この二人の(あるいは夫の人の)兪になっているという、よく「分かる」付き筋も見えてしまい、そう読むと、ずいぶんベタな句に見える(それは、内容を惚気と取るかどうかによるだろう)。
通俗性という意味で、あやうい句だと、言えるかもしれない。
●
同じ記事で、自分は、片山由美子と田島健一の「分かる/分からない」をテーマとした対談(「オルガン」10号・)について書くと予告したまま、果たしていなかった。
それに先立つ2017年の「スピカ」の連載エッセイで、片山は、本人も登場する「ku+」の俳壇地図について、肯定的に面白がってくれていて、自身については、
「私は「分からないとダメ派」に分類されている。そんなことをどこで言ったのかしらと思ったが、当っている。俳壇最右翼(この図では左端だけれど)と思われているのが嬉しい。気の毒に櫂未知子さんも私と同類にされている。その下に西村和子さんの名前は少し小さく書かれている。西村さんに見せてあげたら、「〈クプラス〉ってなあに?」と言ったけれど面白がっていた。その下に「品格派」というのを見つけて、「あら、私はこっちヨ」とも」
「私のような人間はむしろ「俳句原理主義者」と呼ぶ気もするのだが(イスラム原理派というのはそういうことでしょ?)取り敢えず「分からないとダメ派」として、その勢力拡大に力を尽くすのが今後も私の使命だと思っている。死守ということになるかもしれないが」
と書いている。
http://spica819.main.jp/tsukuru-katayamayumiko/page/3
いい仕事をしたなあ、と思うわけだけれどw
片山はここで、俳句は「分からないとダメ」という思想について自認があり、主義、イスラム原理派、勢力拡大、死守、といったワードによって、それがいわば思想的な闘争であるという意識があることを(冗談交じりながらに)示している。
●
件の「オルガン」の対談から、「分かる/分からない」をめぐる、片山の発言を拾ってみる。
片山 私は言葉っていうのは伝わらないと意味がないと思っているの。
田島 わかります。伝わらないと意味がないのが言葉だっていうのはたぶん片山さんの立場で、私は伝えようとしているものが言葉なんじゃないかという立場なんです。
片山 でも、それは、じゃ、言いさえすればいいってことになっちゃうじゃない。
田島 そうです。
……
片山 でも、受け取ってもらえることを期待して発するじゃない。作品というのは。
……
片山 たとえばね、この句はわかりすぎて面白くないっていう切り捨て方をする人いるでしょ。そのわかるっていうのはたとえば単語の意味ひとつひとつがわかっているだけであって、俳句で組み合わされたときに、その有季定型の人たちが狙っている言葉の並びっていうものを、本当に理解しているかどうか、っていうのはまた別だと思うの(…)つまり、わかりすぎて面白くないって切り捨て方をする人たちは本当に我々がやろうとしたことをわかってないんじゃないかなって思って。
……
片山 ただ、基本的に俳句って五七五音しかないわけじゃないですか。あとは理屈は言えない。実はこうだったんですよっていうのは言えないわけじゃないですか(だから)五七五で意味のわからない句っていうのは作品とはいえない(…)句会でもよくね、ダメとかわからないとか言うと、実はね、こうだったの、って必ず言う人がいるわけね、俳句はアリバイ証明じゃないんですって私言うんです。五七五で言えてないものはダメなんですよ。
……
片山 俳句ってもちろん散文化しちゃったら面白くないんだけど、ある程度、意味を求めている。「スピカ」の二〇一七年六月の「つくる」の田島さんの句では〈見えすぎる揚羽は還る樹を知らない〉というのはわかるけれども、〈野生の金魚ひこうきたてものぜんぶ墓〉、これはもうわかんないということなのよね。
……
片山 とにかく、その海鼠の句(〈階段がなくて海鼠の日暮かな 橋間石〉のこと)が私はわからないわけ。みんな、良い句だ良い句だって言っていて、いろんな人が書いているんだけど、ここが良いっていうふうに説明されて納得したことがないの。どういうふううに納得したらいいの?「海岸の階段のあるべきところに階段がなくて……」とか説明してくれた人がいたけど、私の言語感覚では「階段」というのは屋内のことであって、海岸にあるのは階段じゃなくて石段でしょ、と思ってしまう(…)もう文脈としてわからない。
田島 ああ、文脈がね。それは散文的に読んでるってことですか。
片山 そうよ。
田島 それは散文としては確かにわからない。
片山 「無くて」っていうのは、どういうこと。やっぱりそれは、田島さんのなんかこう思い浮かんだ言葉を並べたっていうのと同じかなって。
( )カッコ内の省略と補足は上田による。
なるべく省略せずにピックアップしたのだけれど、質・量ともにこれで全てというくらいの発言しかなく、片山が「分かる/分からない」というイシューについて、多くを考えているわけではないことをうかがわせる。
どうもこの人には、人のことをいちいち矮小化して納得しようとするところがあって(というか、この対談では全くそれに終始している)、有季定型の句を「分かりすぎる」という人の読解力を疑い「分からない」句を書く作家を、句会であとづけの説明をする未熟な書き手と同列に語る。無邪気なのかもしれないが、考えの違う人に対してずいぶん敬意がない、という印象を受けた。
なにより、自分は、片山が〈階段がなくて海鼠の日暮かな〉を分からない、と言ってのけたことに、少なからずショックを受けた。
閒石のこの句は、虚子や石鼎の名品に匹敵する大名句のひとつであって、片山さんどころか鷹羽狩行のどの句の価値とも引き替えにできないと思っていたからだ。
『橋閒石全句集』(沖積舎)「栞」から引く。
私の好きな句はたくさんあるが、やはり〈階段がなくて海鼠の日暮かな〉にとどめをさす。ここにある云い様のない寂寥感にだまって耐えていられるさまが悲しくつらい。(桂信子)
私にとって閒石といえばこの句(…)階段とは二つの空間を繋ぐもの、それも平面にある空間ではなく、上下にある空間を繋いで、行き来の叶わない二つの平面を立体化するものである(…)「階段が無い」と作者の言うとおり、この句の構造には「階段」に相当する脈略がない。「階段が無くて」と「海鼠の日暮かな」という二つのフレーズには行き来するべき意味的な手立てがないのである。(…)不思議さの原因は他にもある。「階段が無くて」の「て」の助詞の軽さ、さりげなさである。作者はこの句が、「て」でクレバスのように深く切れることを十分に承知していながら、「て」の後の切れをなるべく目立たなくしているように思われる。(…)これらのすべてに私は何度でも翻弄され、騙される。(正木ゆう子)
いや、片山が、この句を理解しないことも、現代俳句の成果の多大な部分を欠落させた俳句観をもっていることも、その人の自由であり、他人が口を出すことではない。
しかし、彼女は、音楽の高等教育を受けていて、二十世紀の芸術の純粋志向と抽象性については、じゅうぶん過ぎるほど知識があるはずなのだ。
にもかかわらず、その時代思潮の影響下に生まれた抽象表現(橋閒石は、西脇順三郎、北園克衛、瀧口修造らと同世代人だ)を「文脈としてわからない」で切り捨ててしまうその態度は、ひとことでいえば、バーバリズム「野蛮」というものだろう。
俳句の伝統は、すでにそれらの抽象表現を含んで先へ進んでいるのだから、その歴史を、よく分からないまま切り捨てることは、蛮族のふるまいである。
繰り返すが、片山本人の俳句観がそのようなものであることには、なんの問題もない。ただ、彼女が、現在に到る俳句史の半分の部分を理解できないのだとしたら、彼女は俳句全体を語ってはいけない人だ、ということになるまいか。
●
通俗の話であった。
俳句を「分かる」ように書くことを規範化すれば、それは、通俗化に道をひらくことになる。
創作は、その人の自我とか意識のような「分かっている」領域によってなされるのではなく、むしろ、その人が意識しようとしてもできないし、分かろうとしても分かりえない、潜在的次元の活動によってなされるものだからだ。
「分からなくならないように」書かれるものは、必ず 人を「分かっている」部分において動かすように書き始められる。結果として生まれる「分からなくない」俳句が、小説のような場面や感情を書いて事足れりとするなら、それは通俗である。言葉やイメージの操作によって、なるほどと思わせて、それだけならば、通俗である。
ただ、片山の代表句〈まだもののかたちに雪の積もりをり〉については、主知的でウラも表もないけれど、通俗であるとは感じない。まだ → もの → かたち → 雪と、じわりじわりと進行していくところが、いかにも雪の積もるようすで、言葉が形態模写のように働くという、写生句に稀に見られる高度な楽しみがある。いっしゅんの視覚像のうえに、その前と後の半日ほどの時間が、折り込まれているという、心の深さがある。
だから(三度繰り返すが)作家が自身の作品において「分かる」ことだけを書いて「分からなさ」を排除することには、何の問題もない。作品には、勝手に深く書けてしまうことがあるものだからだ。
ただ、もし片山が俳句について何かを語るのであれば、同時代の俳句が通俗に堕することへのおそれを持つべきだと思う。
4.結社について、そして、通俗のなにが悪いか
人は、低きに流れる。
というか、人はだいたい、高さを目指す時期と低さに流れる時期の、両方を持つ。
それは個人も集団も同じことで、だから、人が、人生において、集団で高みをめざす何年かを経験できたとすれば、それは本当に幸福なことだ。スポーツでも、研究でも、仕事でもそうだ。
日本の短詩形は歴史的に集団性が強く、自分が書いているのか集団が書いているのか分からないようなところがある。だから、まさに、結社はそういう幸福な時代を送る「ために」あるものだし、今がまさにそうだと見える結社のあることも、知っている。
自分は、前回の時評において
「しかし、その作品(*) は全体に「通俗性」が濃く、ありていに言ってしまえば、それは結社の問題なのではないか」
と書いた。(*) 「俳句」2019/6号の若手特集の作品
結社推薦によって45句を発表していた若手が(全員ではないが)ずいぶん通俗的で、自分が知る、ここに推薦されていない20代30代の作家にはそういう印象を持つことがなかったので、これは、その作者と作品を良しとして推薦した結社の、内情の反映だろうと思ったからだ。
推薦した結社と編集部を責めるべきなので、いちいち作品を批判することはしない。
同記事には
「俳句における通俗性の問題は(他のすべてのイシューと同じく)、いかなるコミュニティを宛先として書くか、という問題に帰する」
「結社で書いている新しい人に言いたいのだけれど、そのコミュニティの多数派がよろこぶものを書くことからすこし離れて、あなたと同じように新しい人たちを宛先として、考えてもいいんじゃないだろうか」
とも書いた。
通俗的なものを受け入れてしまうコミュニティの期待があなたの背後にあるのではないか、さらに言えば、結社の多くが、すでに老いて、低さに流れる時期にあることこそが問題なんじゃないか。そういうことを、結社で書いている人は、自分に問うてみてくれないか、と思ったのだ。
けっきょくは、結社と総合誌と協会からなるいわゆる俳壇が、いま、通俗への抵抗を維持できていない(そこにもまた老いの問題がある)ことが問題なのだろう。
しかし、人間、自分の所属集団を批判されると自分のこと以上に腹を立てるもので、大方の人を怒らせて、自分は損をしただけwという気もするのだけれど、それはまあいい。
人がすることの動機を、政治だなんだとしか見られない小人たちに、なにか口をきくチャンスを与えてしまったようだけれど、それもまあいい。
●
前記事に書いたように、自分は「通俗であること、大衆的であることが、俳句にとって、必ずマイナスではない」と考えている。
それで、誰かが感動した、救われたという経験の価値を否定する気は毛頭ないし、ある一句が通俗的な内容を扱うことが、その句の価値を低くするとはまったく思わない。
じゃあ通俗のなにが悪い、と問われたら、俳句全体のシリアスさが減るから、と答える。
シリアスさと言っても〈一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子〉のようなマジメさとは違う。あの句は〈万緑や死は一弾を以て足る 上田五千石〉とよく似ていて、ひじょうに通俗的だと思うのだけれど、櫂のこの句や、小川のあの句について、否定的な意見を見たことがない。
一句単位、作家単位の問題ではなく、ある集団の俳句「全体」、ある時代の俳句「全体」のシリアスさ(の量)というものがある。
表現行為というものは、シリアスさが減ると「気晴らし」に近づき、増えると「宗教」に近づく。神がいなくて、空位の高さだけがある宗教だ。
ここで使うシリアスさの定義は「高さへの志向」とでもしておこうか。
宗教にも、シリアス寄りなそれがあり、一方に、通俗寄りの現世利益中心の宗教があるけれど、俳句も、宗教同様、シリアスになったり、通俗的になったりする。
民衆の現世利益を求める姿にこそ、宗教の原点があるのだし、通俗に感動する純粋な心を低く見るのはよくない、というようなことを言う人がいるかもしれない。けれど、何度でも繰り返すが(気がつくと芥川と同じことをしてしているが)、自分は、個々の作品や作家の価値を〈シリアス-通俗〉あるいは〈高踏-通俗〉の尺度で、計ろうとしているのではない。
作家は、自身にとっての通俗性とシリアスさの最適なバランスを、勝手に選ぶだろう。
通俗性とシリアスさを100対100で両立することは、とんでもなくオッズの高い道だけれど、その道を行く人のことは尊敬する(鈴木しづ子は、すばらしいし、北大路翼はそういう作家だと信じている)。
ある時代のある集団がどれだけシリアスでありえたか、は、生産性の問題である。
通俗性が勝った時代に、俳諧・俳句が良くなったことはない(その時代が良かったか悪かったかは、後世に残った作家と作品の数でわかる)。
芭蕉も子規も虚子もシリアスな作家だった。低佪をおそれない虚子も「月並」と「小主観」を嫌うことは一貫していた。
自分は、俳句の庶民性や現実に取材するアクチュアリティあるいは諧謔や遊戯性を、軽視しない。自分の書くものについては、現代性と冗談を失わないようにと、それだけは気をつけているつもりだけれど、同時に、俳句「全体」が通俗にかたむき、シリアスさを失うことを、おそれている。
5.草間時彦と小川軽舟
書くべきと思ったことは書き終えたので、すこし気楽に書く。
前回の時評に、ツイッターでの反応をいただき、その多くは神野紗希さんの時評に対するものだったけれど、ハッとしたのは、堀田季何さんの、このツイートだった。
http://twitter.com/vienna_cat55/status/1135372969146896384
#週刊俳句の時評、「子にもらふならば芋煮てくるる嫁」(小川軽舟)を神野紗希さんはジェンダー、評者の上田信治さんは通俗性の問題として捉えているけど、こういう性別役割分業は前世紀的な通俗性に含まれているのでは。軽舟さんの句の魅力でもある通俗性に含まれる魅力的でないジェンダーの問題。
自分は、この句から、コミュニティの「本音」にウケにいっている作家の姿勢を感じて、それを通俗の問題であると考えたのだけれど、ハッとしたというのは「軽舟さんの句の魅力でもある通俗性」という言葉だ。
そうか、魅力ねえ……軽舟句にあらわれる庶民的な生活感は一貫したもので、たしかにそれは作家性ではある。
そういえば、と思い出したのが、アンソロジー『超新撰21』(2010)に掲載された、関悦史による小川軽舟小論だ。
どこへも解き放たれることのない、解き放つべき出口もない或る魂を身に引き受け、虚無や諦観を帯びつつも真理は平静を保ったまま無限の精進に持ちこたえ続けるとき、その寂しさを優しく包み込むというのでもなく季語がそこにふと寄り添う。
蝸牛やごはん残さず人殺めず
(…)
軽舟句においては、驚異的なものは忘我の陶然ではなく究極の疲労の如き密着と虚脱を強いる世界率としてその内界に張りついている。
(…)
こぼさずに水運びゆく春の暮
死ぬときは箸置くやうに草の花
この端正な虚無と緊迫、乱れのないという物狂いを型が支持する。軽舟句が今後乱れを含み込み、拡充と寛解へと向けて移ろいだす時が来るのかどうか今のところ見定めがたい。
(「型に依る醒めた物狂い」関悦史)
つまり関は、小川を、チェスタトン的な「行きすぎた正気という狂気」を生きる主体とみなし、その端正さ、乱れのなさのすべてが、疲労と物狂いの表現なのだという読みの転倒(自分にとってはそうだ)を提示しているのだ。
それを受けて、同書巻末の合評座談会において、筑紫磐井は、
筑紫 (…)強いて似ている作家がいるとしたら草間時彦。あの人は非常に居住まいの正しい句を作ったけれど、後半生はかなり自由で、かつ自分の思いがもろに出たり、裏からそっと出たり、ほのかに出たり、じつに巧みに作っていく人だったんです。小川さんの目指す先があるとしたら、その世界じゃないかと思います。俳句の自由というのはああいう方向にあるんで、そちらへ行くのならばまだ型は型としていろいろ展開のしようはあるんじゃないでしょうか。
と発言している。
その二つを読んで、軽舟句について、考え直されるものがあった。物狂いと自由か、と。
●
草間時彦は〈冬薔薇や賞与劣りし一詩人〉〈甚平や一誌持もたねば仰がれず〉という、自分にとって「嫌」のかたまりのような句で知られた人だけれど、こういうベタベタの本音を、わざと、嫌がらせのように出してくる人だと思えば、かえって面白くなってくるのではないか。
足もとはもうまつくらや秋の暮 草間時彦
顔入れて顔ずたずたや青芒
色慾もいまは大切柚子の花
こだはらず妻はふとりぬシクラメン
おじんにはおじんの流儀花茗荷
うーん、やっぱり嫌だなw
この人は、どういう勝算があったかは知らないが、通俗への開き直りをやっていたんだと思う。物狂いといえば、この人こそ、そうかもしれないが……。
●
平凡な言葉かがやくはこべかな 『手帖』小川軽舟
雪景色女を岸と思ひをり 『呼鈴』
道ばたは道をはげまし立葵
めしべは実にをしべは夢に冬茨
このような句が通俗的だという、自分の評価は変わらない。しかし、じつは、小川の句集に多くあるのは、次のような句だったりする。
電球の切れてゆふやみ南瓜煮ゆ 『呼鈴』
水飴の気泡のぼらず笹子鳴く
たんぽぽやまばたきのなき死後の景
息かけてのばす靴墨西行忌
冬枯に降りパラシュートうちかぶる
この疲労感と端正さ、諧謔味、そして先にあげた四句のような通俗性を、ひとつに引き受ける実存があるのだとすれば。
それは、グチっぽい落語家のような主体であろうか。
ポーカーフェースで、生活感のあるマクラが得意。姿が良くて、古典が上手い。 端正すぎて、ちょっとこのひとオカシイんじゃないかという、凄みもある。
そういえば、小川は、出たばかりの「鷹」2019/7月号の編集後記で〈子にもらふならば芋煮てくるる嫁〉が「俳句」6月号で神野紗希の批判を受けたことについて、こう書いている。
作者としては、「今どきそんな娘いるわけないだろ」とツッコミを期待したユーモアのつもりだったので、「そうか、やっぱり芋煮てほしいのか」と真に受け取られると当惑する。しかし、政治家の失言の大半も受けを狙って社会的な配慮を忘れた結果ではなかったかと反省も頭をもたげる。社会的な配慮は文学の表現の首を絞めかねない。しかし、文学が人を傷つけることは本意ではない。境界線は時代とともに変わるのだろう。
じつに行き届いたコメントだけれど、やっぱり、ウケを狙っていたんだ、ということが感慨深い。
ますます、通俗性もアナクロも、この人が苦笑いとともに繰り出すネタなのかもしれない、と思わせるではないか(それでは、まるで麒麟さんなのだけれどw)。
自分は、以前、髙柳克弘、神野紗希、西村麒麟の3人は、作中のキャラ設定込みで作品になっている、ということを言ったことがある。
小川が、俳句内にキャラクターを立てるタイプの書き手であるとしたら、「死ぬときは」や「平凡な」のような句の真実性の薄さについては、もともとアバターの言っていることなので、あまり気にならず、他の句がこれまで以上に面白く思えてくる。そういう読みが可能かもしれない。
昼めしのあとのあんぱん都鳥 『呼鈴』
春愁や猫になりたきトースター
そして、ちょうどというか何というか、小川の第五句集『朝晩』の発売が予告されているのだった。
>> ふらんす堂オンラインショップ 小川軽舟句集『朝晩』
●
2019-06-30
時評のようなもの6 ふたたび通俗性について
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