2019-06-30

BLな俳句 第23回(最終回) 関悦史

BLな俳句 第23回(最終回)

関 悦史
『ふらんす堂通信』第158号より転載

秋かぎりといふ守衛ゐる画廊かな  能村登四郎『長嘯』

『長嘯』は登四郎が八十一歳のときの第十一句集となる。このあたりまで来ると、艶っぽさに富んだ登四郎の句も、さすがに淡々たるものになってくるようだ。

この句はべつだん性愛の要素はないのだが、この守衛もそれなりの年齢を迎えての退職なのだろうし、「秋かぎり」というからには、顔なじみになってから少なからぬ歳月を閲しているわけで、寂しさというより、人恋しさが強い。

辞めてしまって、いなくなったところを描いているわけではなく、近々辞めることはわかっているが、まだ当人は目の前に現前している点が肝なのだろう。「秋」という季語も、もの寂しさばかりではなく、守衛の現前する肉体と相俟って、どこか、定年まで勤め上げたという稔りを感じさせるところもある。

もう一つ「画廊」という要素も効いていて、これが老人二人の別れという侘しい素材に、肩の力の抜けた華やかさを添えている。

二人の人生と、淡い交流が、何やら清遊じみたものに見えてくるのである。


滝行のひとりをりけり見るもひとり  能村登四郎『易水』

滝に身を打たせている者と、それを見守る者、どちらも一人となると、両者の精神に何か通いあうものが出てくる気がする。いや、滝行をしている者はまわりなど見えていないだろうから、両者の交流は片恋に近い一方通行のものとなるだろう。

片恋というほど心理としてまとまったものではなく、たまたま滝行の現場にでくわした者が、それに捉えられ、見入らざるを得なくなってしまったという局面のみが、不意打ちのように形成されているというだけかもしれない。この二人にもともと何らかの繋がりがあったわけではあるまい。

しかし無関係なもの同士とはいえ、テクスト上で隣り合わせにされたものには、必ず説話論的な関係が生じてしまう。ましてその両者がともに「ひとり」であるという事実が句のなかで繰り返されているのだ。この出会いは、それだけでもはやのっぴきならないものとなっているのである。


滝垢離の童貞も透く白行衣  能村登四郎『易水』

こちらも滝行の句だが、両者の交流よりは、行者への関心に句が集中している。

若い男であるらしい。

「滝垢離」「白行衣」の間に「透」いている「童貞」は、極めて清冽なものとして捉えられている。

しかしこうした素材で精神的な志向を打ち出す場合、ふつうならばもっと力んだ、その清冽さへの同調をこれでもかと押しつけがましく読者に訴える句になってしまってもおかしくはないはずなのだ。

登四郎句にはそうしたケースは、この句に限らずほとんど見当たらない。

この句の場合も、宗教的求道性への賛嘆という要素が皆無ではないにせよ、「透く」「白行衣」といった切り取り方からは、むしろ外見的な美しさに関心が向いているようにも見える。

求道性への賛嘆も、内面的にではなく、外見をなめるようにまつわりつく視線として現れるのが登四郎句のひとつの特徴なので、登四郎句の奇妙な色気もそこから来る。いわば内面性をともなったコスプレとして相手を愛でているのであり、したがって相手の顔や個性が固有のものとして際立ってくるケースはほぼない。


翔ぶ男ばかり見てをり春炬燵  能村登四郎『羽化』

「冬季オリンピック」の前書きあり。

競技の成績や勝ち負けに関心があるわけではなさそうだが、それでも何となく見なければならない気がしたり、テレビをつけるとやっているので、ついついつきあったりと、そのくらいの興味で見ているといった雰囲気を、ぬくぬくとした「春炬燵」が感じさせる。ときどき居眠りくらいしていてもおかしくない。

「翔ぶ男ばかり見てをり」はナンセンス味もあるが、若い男性選手の躍動する肉体美にばかり惹きつけられているとも取れる。一流選手の卓越したプレイそのものに惹かれるということのほうが、スポーツ観戦の本道であるともいえて、点数とか何かは二次的なものだから、その意味では真っ当な観戦だが、どうも卓越したプレイに興奮しているといった風情でもない。この句にあるのは、安楽な春炬燵から眺める、翔ぶ男ばかりなのである。ヒトという生物を代表するかのように次々にくり広げられる男たちの身体の最高のパフォーマンスを、神様や仙人の類が空からさほど気を入れるでもなく鑑賞しているような、ゆるやかな華やぎがある。

登四郎句ではおよそありそうにない話だが、これがもし「翔ぶ女」であったら、この浮遊感はたちまち消える。

第十二句集『易水』、第十三句集『芒種』、そしてこの没後刊行となった第十四句集『羽化』あたりまで来ると、さすがに男性を愛でている句も、あまり多くはなくなってくる。

というよりも『羽化』にはこの一句しか、とりあげたい句が見当たらなかったのだが、いわゆる枯淡や円熟の境地とも少し違う、安楽ながらなまめかしさの残る最後の「男」句となっている。


泳ぎ来し青年臥してくぼます砂  能村登四郎『欧州紀行』

序数句集とは別に、登四郎にはヨーロッパでの旅吟を収めた『欧州紀行』という本がある。

一九九五年刊行だから、本としてまとまったのは第十一句集『長嘯』(一九九二年)と第十二句集『易水』(一九九六年)の間のこととなるが、「馬酔木」に連載されていたのは一九六七年、登四郎五十六歳のときのこと。つまり第三句集『枯野の沖』(一九七〇年)の準備期間にあたっている。

全句集の著書解題によると、心象風景を志した『枯野の沖』に、リアルな海外詠はそぐわないので外され、以後二十八年間眠ったままになっていたということらしい。

この句は「ギリシヤの琴」という章題の一連に入っている。

五十代のこの作を後からふり返ると、肉体のあらわれ方に重みや張りがあり、なまなましく、輝かしい。

「臥してくぼます砂」の、寝そべった姿勢での密着がそうした印象をもたらすのだが、この句の力感はそこにさらに「泳ぎ来し」の運動と停止の要素が重なっていることから来る。この青年の肉体は、「泳ぎ来し」の膂力と、海そのものの質量エネルギーを担いつつ臥せているのである。その肉体に押しひしがれた「砂」への、羨望や憧れにも似た感覚もちらつく。

先に「滝垢離」の句の鑑賞で、「求道性」という言葉を持ち出したが、登四郎が反応するのは、そうした精神的な要素というよりは、個人の身体のスケールを超えた力や運動を帯びたものとしての男性の肉体であるとした方が適切なのだろう。

この「ギリシヤの琴」なる一連には、〈裸像あまた見し夕なり泳ぎたし〉という句も含まれている。

〈泳ぎ来し青年臥してくぼます砂〉では泳いできたことによって他者のエネルギーがあらわされるが、この〈裸像あまた見し夕なり泳ぎたし〉では裸像の持つ力感にあてられて、語り手の側が泳ぎへと指嗾される。

登四郎にとって「見る」ということは、そうした力の交換の場でもあったようだ。


泳ぐ青年アポロの裔の胸毛濡れ  能村登四郎『欧州紀行』

海の水の重量をエネルギーそのものとして身にまつわらせる「泳ぐ青年」の身体は、ここでは二つの方向にそのエネルギーを同時に放出する。ひとつは「アポロの裔」の大理石の彫刻を思わせる均整と神性であり、もうひとつは「胸毛濡れ」という、体毛のしつこい描写としてあらわされる過剰な肉体性の色気である。

そしてその二つの方向は句のなかで、静止即運動、運動即静止といった格好で、あらかじめまとめ上げられている。この句のあり方自体が、よくできた彫刻を模しているかのようだ。

句のなかにおいて、BL用語でいえば「受け」キャラというよりも、むしろ読者として妄想を膨らませる立場に過ぎない「腐男子」として、もっぱら身を処してきた登四郎の目は、男体のイメージを通して自然や神性を引き出しつつ、その境界面たる男体の官能に踏みとどまり続けるための装置として働きつづけていたのではないか。


長々と能村登四郎につきあい続けて、沼から出られぬような状態になっていたこの連載も、全句集をともかく通覧し終えたのと同時に、今回をもって終わる。

*

関悦史 



阿修羅いまさらはれて夜の花吹雪

磯巾着に捕られ青年めく魚よ

美童の双子口使ひあひ夏至の日なり

水鉄砲局部狙はれ狙ひかへす

少年の口のみの笑み鳥兜

天しづかに稚児競るごとし鰯雲

白き秋鶏姦は歯を食ひしばる

受け攻め入り乱るるや黄に紫に菊

ランボーをヴェルレーヌ撃ち鵙の贄

襖開ければ男らつるみをりすぐ閉む

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