2019-06-16

【角川俳句6月号を読む】 「第二芸術論、第二芸術論とうるさく言ってしまいました」 山口優夢

【俳誌を読む】
 「第二芸術論、第二芸術論とうるさく言ってしまいました」
『俳句』2019年6月号を読む

山口優夢


角川俳句6月号を読んだらいろいろ面白かったので、書き留めておきたいと思う。

◎「大特集・推薦! 令和の新鋭」


39歳以下の俳人24人を紹介する若手俳人特集。1人が見開き1ページを使い、所属結社・顔写真・新作20句・略歴・結社の主宰の推薦のことば・旧作25句(主宰選)という構成からなっている。

24人は、俳句結社の主宰が1人ずつ「推薦」したものだ。24の結社の中には「船団」など結社と名乗っていないものも入っているようであるが、対馬康子による総論で「この二十四名は主宰から結社の若手代表として選ばれ、見開き写真付き大特集に作品発表をする貴重な機会を得た」とあるので、少なくとも編集部としては24の「結社」の「主宰」が選んだ、という認識のもと企画しているようだ。

なぜ若手俳人を特集するにあたり、結社の推薦という形をとったのだろうか。企画の趣旨はどこにも書かれていない。対馬康子による総論を見てみよう。「俳句の将来を担う若手が徐々に力を蓄え、かつての「戦後派」のように、たくましく「若いかたまり」となってきていることを実感している」と若手に対する期待感を語り、結社については「要は、主宰が句会などの神聖な人間同士の修業を通して、「物と心の新しい関係性」を、直接人として伝え合い鍛え合う場である」と定義している。この結社で鍛えられた24人をご覧いただこう、というわけだ。

しかし、対馬自身が認める通り、今の時代には「結社に属さないで俳句を作る人も増えて来た」のであり、その状況で結社ご推薦の若手のみで大特集を行うことの意義は何なのか、やはり疑問が残る。結社に属している方が鍛えられる、という主張ならばなおさら、結社所属の若手とそうでない若手を並べて見せればいいのに。逆に言えば、やや話は脱線してしまうが、6月2日号の週刊俳句で上田信治がして見せたような分析も、結社所属でない若手を同じ条件で企画に登場させていないために比較・検証ができず、不十分な論にしかならない、ということだ。そもそもこうした企画に意味があるのは、結社というくくりで若手を全て語れるという前提があってこそではないだろうか。

その上で結社の主宰が推薦した若手の俳句を並べるということの事実上の意義を考えるならば、それは「読者に読んでもらうため」ではなかろうか。「●●さんの結社の若手なのか、なるほど●●さんがそう薦めるなら、ちょっと(話の種に)読んでみるかな」という消費のされ方をあからさまに想定している企画と見える。所属結社名を俳人そのものの名前より目立つ字体・場所に置き、主宰俳人の「推薦のことば」がないと、若手の俳句など誰も読まないと、編集部はそう思っているのではないだろうか。

高山れおなが「俳句など誰も読んではいない」というテーゼを打ち出し、週刊で俳句批評を掲載するwebサイト「―俳句空間―豈weekly」を創刊したのは2008年のことだ(すでに終刊)。その問題意識の対象には、入門特集に終始し批評の場を形成することのない俳句総合誌への批判も当然入っていただろう。確かに今回の6月号は入門特集ではない。鉄板の入門特集を1回お休みして(7月号は「夏の季語入門」)、現在の若手の俳句作家にフィーチャーし俳句界の現在と未来を見通そうという心意気はすばらしい。たぶんその分、「ただ若手の作品を並べるだけじゃ読まれない」という冷静な計算もあったのだろう。「せめて中堅からベテランの俳人が持つ権威に紐付けないと、何処の馬の骨かも分からない俳句なんて誰も読みはしない」と。

もしも俳句総合誌がつまらないとしたら、それは俳句総合誌だけのせいではない。それが多くの俳人の求めているものを反映した姿である以上、その責めもまた、俳人が負うべきものだ。つまり、我々は1946年に発表された桑原武夫の「第二芸術論」による批判を一歩も乗り越えていない。「ある俳句1句を読んだだけではその句が大家のものか素人のものか判別ができず、それを決定づけるのは弟子の人数といった世俗的な権威に過ぎない」といった趣旨のことを桑原はその論で述べているが、まさにこうした結社の主宰という「権威」を経由しないと若手の俳句をきちんと読むことができない我々の態度こそが、大いに反省すべきものではないかと考える。

長い前置きになったが、以上の問題意識から、やはり1句1句きちんと彼らの俳句を「読む」ことから始めないといけない。それは大げさに言えば、第二芸術論の超克のためにも。というわけで、24人の新作20句の中で、興味を覚えた俳句を以下で鑑賞する。

屑籠の倒れしままや春夕焼 浅川芳直

本来立っているべきゴミ箱が倒れっぱなしになっている。丸めたティッシュやビニール袋などが口から少しこぼれているだろう。「春夕焼」という季語が、雑然とした部屋をさびしくしずかに統一しているが、それは夕暮れ時の一瞬のことなのだ。あえてゴミ箱を直そうともしない無気力感も含めて好感を持った。

遊園地うごかす電気桜咲く 遠藤容代

遊園地にいて、それを動かす電気を思っている作者の浮遊感。全くない発想ではないかもしれないし、家にいてもいろんなものが電気で動いているのだけれど、やはり遊園地の華やかな幻想を支えている電気の流れにこそ目が向くというのはとても面白い。桜が咲いているということはディズニーランドではないだろうな。花やしきか?夜だろうな。電気の通らない桜の幻想性だけが実は現実なのであるという倒錯した味わい。

エスカレーター駆けて子供や春めける
 川原風人

どこのエスカレーターでもいいのだけれど、屋上に通じるエスカレーターだとなお気持ち良いなあと思った。子供、そして春めくという言葉を入れながら陳腐すぎないのは、エスカレーターを駆けるという地に足の付いた場面設定のチョイスからだろう。

電車から見る春のリビング誰もゐず
 川原風人

あ、と思う間にそのリビングは視界の後方に飛んでいく。線路際の清潔なマンション、そうきっとアパートではなくマンションだろう。「リビング」という言葉の響きがそう思わせる。高架を通る電車に乗っているとき、時折私もそんな風景を見たはずだ。からっぽの部屋には春の昼の光がよく通る。モデルルームのようなどこかうつろな春の昼だった。

献花よりつぎの献花へ虻飛びぬ
 川原風人

「献花より献花へ」でも句の意味は通る。供えられたある花から別の花へ、と飛んでいると捉えられるが、「つぎの」という一語が入ることで次に並んでいる人が献花をしている動作を見せることに成功している。そこには沈鬱な雰囲気が漂っているだろう。ああ、そういうときでもこの虻は関係なく飛び回るのだ、それが生命の営みだから!

ぶらんこの子が真夜中を待つてゐる 西生ゆかり

新世紀エヴァンゲリオンでも、主人公シンジの幼い頃の記憶に、誰もいない夕方のぶらんこがひとりでに揺れている。夕方から夜にかけてのぶらんこほど、胸をえぐられる幼年期のさびしさはない。なのにこの子は真夜中を待っているのだ。何か人ならざるものを見てしまったようなぎくっとした印象を抱く。この子の心が純粋に真夜中を心待ちにしていればいるほど、母親や父親のことなど心になければないほど、そらおそろしい気分になる。

髪洗ふときも喋つてゐる姉妹 杉田菜穂

普通の家の風呂場にはシャワーは一つしかない(と思う)。姉妹を第三者の視点から見ていることからしても、この句は温泉か銭湯で並んでシャワーを浴びる女性2人を目にしたものだろう。旅先の高揚感か、銭湯通いの気楽さか。互いに視界は髪洗う手で阻まれていても楽しげにおしゃべりする様子は、それを目撃した人の心もほっこりさせたことだろう。姉妹が小学生くらいでも、ハイティーンでも、20代でも、子供を持つくらいの年代でも、いずれも味わい深いが、すでに夫が退職したのちにのんびり温泉に浸かりに来た老女2人という設定はどうだろう。何十年も前からこうして髪を洗うときも喋ってきた姉妹、それを思えば時間を超えていく不思議な感覚をすら覚える。

誰も見ず観潮船の大鏡 涼野海音

2階建て、3階建ての大きめの船には、確かに階段の踊り場などに大きな姿見がある。観潮船だから、そこにある鏡の前は誰も素通りして潮の流れを見に行く。実は誰も書き留めなければ意識もされなかったことで、世界は満ちている。

囀や翠ときをり紅に 柳元佑太

夏も深くなった頃の葉っぱの緑色だとこういうことはない。春、あるいは新緑の明るく薄い葉っぱの緑は光線の具合で確かにどこか赤く見えることがある。補色だからか、その仕組みはちょっと知らないが、みどりやくれないという色彩を書いているようで実はこの句の主役は光だ。極度に単純化した図式の中に、自然の不思議、それを視覚で認識する自分の不思議を思う句だ。

また、次の句については一言言いたい。

神待ちの少女ネオンの路地の裏
 山本たくや

神待ちの少女、つまり「神を待っている」少女だが、これは「信仰深い」少女ではなく、「家出して行くところがないため今晩泊めてくれるところとご飯を提供してくれる「神」のような成人男性を待っている」少女のことだ。当然、それなりの対価を差し出すことが期待されている。対価!彼女たちに体以外差し出せるものがあろうか。つまりはネット上のスラングであり、社会問題化している売買春の新しい形態の一つだ。

彼女の行き場のなさ、誰も救いの手をさしのべないまま滑り落ちてしまった社会の暗部、それに俳句で手を出そうという心意気はすばらしい。しかし、「ネオンの路地の裏」ではダメだと思う。そうなんでしょうね、という固定観念から外に出ない。そして、彼女に寄り添っていない。

私は、俳句の素材は広げるべきだと考えている。これまで俳句の領域に入らなかった言葉も積極的に入れるべきだと考えている。しかし、問題はそれを自分の中でどう消化するか、ではないか。その格闘が必要だ。神待ちの少女を俳句に詠んでほしい、その言葉は「俳句になじまない」とは絶対に言わない、でも人のやらないことをやるならば、もっともっと格闘しないといけない。これは、自戒も込めて。

以上の俳句たちから、若手の何が見えてくるだろうか。それは上田の言うとおり「通俗性」だろうか。新しい傾向や、あるいは逆に多様性が見えるだろうか。ひとかたまりになって上の世代の権威を脅かす何かが表れてきているだろうか。

うーん、困ったときは総論に立ち返ってみる。対馬はこう書く。「二十四名の作品は、生き生きとしたエネルギーの表現に実感がこもっている。老いや死がまだ観念と諦念の先にあることが眩しい。有季定型を恩寵としながら、今のわれをいかに表現するか。若い感性が現代の孤独を、内面の具象性豊かに、写生的あるいは造型的に映し出している」と評している。老いが感じられないはまあ当然として、他の評語はどこまであてはまるだろうか。

個人的には、作者が世界に主体的に関わっている作品よりは、作者自身は傍観して冷めた心持ちでいる作品の方に面白いものが多いように感じた。上に挙げた句はほとんどがそうであるし、その限界が「神待ちの少女」の句に見えているということなのかもしれない。それを結社と関連づけるか、世代論として捉えるか、書き手である山口のバイアスがかかっているのかは分からない。願わくば、総論で対馬が言及するようなパッションにあふれた俳句に、これからどこかのタイミングで出会えればうれしいと思った。

◎「第53回蛇笏賞決定」


大牧広氏の句集「朝の森」が受賞したとのこと。正直、これまで大牧氏の俳句をきちんと読んだことはなかったが、50句の抄出を興味深く拝見した。

開戦日が来るぞ渋谷の若い人
金銀を売らぬかといふ初電話
敗戦の年に案山子は立つてゐたか


「有季定型を恩寵としながら、今のわれをいかに表現するか。若い感性が現代の孤独を、内面の具象性豊かに、写生的あるいは造型的に映し出している」という前掲の対馬の評語が当てはまるのは、むしろ大牧のこれらの俳句ではないかと感じた。もちろん、「若い感性」という部分も含めて。ちゃんと「朝の森」を読みたいと思った。

◎「私の俳句クロニクル 深見けん二〈前編〉」

今号からの新企画だそうだが、やはり企画の趣旨説明がないので、どういう意図からの企画かよく分からない。タイトルの「クロニクル」と「取材・構成」という文字から、俳人が昔を振り返るインタビューということは分かるが、なぜこのタイミングか、なぜ深見けん二か、登場する俳人はどういう枠組みで選んでいるのか、何の狙いがあるのかが分からない。

ただ、インタビュー中、昭和34年2月の玉藻の研究座談会で虚子から「次回は風雅について話そう」と提案があったものの4月1日に倒れてそのまま亡くなった、というのが何とはなしに心に残った。風雅か、と思って。語ろうとして語られなかった、失われた虚子の言葉に思いをはせてみたいと思った。

◎「現代俳句時評6 ミューズすらいない世界で 俳句とジェンダー(上) 神野紗希」


こちらもインターネットで言及されることの多い論考。ジェンダーについてはみんな思うところがあるということか。前半部分の短歌におけるミューズの話題は紹介のみなのでいいとして、後半部の次の2点の妥当性について論議が集中したようだ。

①小澤實の近著「名句の所以」に関連して「俳句αあるふぁ」2019春号に掲載された小澤と堀本裕樹の対談に触れ、2人が名句として選んだ10句の作者の男女比が不均衡であることを例にとり、「名句中の名句を男性の句にしか見いだせないのは」「近現代俳句を語る上で偏っていると思われても仕方ないだろう」と述べている点。

②小川軽舟が2016年、主宰誌である「鷹」に発表した「子にもらふならば芋煮てくるる嫁」を例示し、家庭における旧来の役割を女性に押しつける保守的な思想をそのまま表出した俳句への違和感、彼女自身が女性として感じる「真綿で首を絞められたような窮屈さ」に言及した点。

僕も言いたいことがあるのでこの論考に触れてみたわけなので、それぞれちょっと考えてみたい。

①これは小澤と堀本の対談を例にとること自体があまり適切ではなかったように感じた。論考の中には神野自身が2人の発言を抄出しているが、小澤が女性や若手の句を選ばず堀本が選んだことに対して「その辺の配慮が足りませんでした」と述べているのに対して、堀本は「いや、それはもう句だけでいいと思います」と返している。

まさにこの堀本の「句だけでいい」という発言に論点は集約されていないだろうか。僕はこのやりとりを読んで、堀本の発言が、小澤から俳句以外の要素にも目配りをして選んだと思われるなんてむしろ心外だ、という言外のニュアンスを含んでいるのではないかと、それはかすかなものながら、感じた。

いや、待ってくれ、もちろん、さきさんの言いたいことは分かる。「たまたま選んだ名句が男性の俳句だけだった」――そのこと自体が意識的に男女を差別しているのだと言っているわけではなく、そうしたことがなぜ起こるのかを考えたとき、その無意識的な女性排除は、これまでの先人の選句の積み重ねの結果生まれた俳句史の記述の帰結ではないか、と神野は言いたいのだろう。つまり、「女性俳人は、近現代の俳句史の傍流に位置づけられてきた」という形で作られた俳句史を前提に「名句」として男性の俳句だけを抽出することは、それ自体が女性に対する差別を強化するという趣旨であろう。

しかしその視点を有効なものを見なすには、女性俳人が不当に俳句史の傍流に位置づけられてきたことをまずは論証すべきではないか。星野立子は、三橋鷹女は、池田澄子は、西村和子は、櫂未知子は、神野紗希は、現在俳句史で位置づけられている位置がおかしい、一句一句の作品を見たとき、男性の俳句作者よりむしろ時代を切り開き、優れた作品を作って俳壇をリードしたにも関わらず、その評価が正当に与えられていない、それは女性だからだ――そうした前提がないと、先の名句の選句についても、「10句の中に関西出身の俳人がいない」「10句の中に子供の句がない」「10句の中に専業俳人の句しかない」と言った他の無数のカテゴライズでも同様の批判を許す結果になりはしないか。

神野の論考では、その前提を論証していないことに不満を感じた。個人的な見解を述べれば、女性俳人を傍流に押し込める先入観は、俳人の中に実際にあると思う。ただし、直感に過ぎない。あるいは、作品本意ではなく弟子を何人育てたかによって俳人が権威づけられることと、有名結社の主宰に女性が多くないこととの関連があるのかもしれない(第二芸術論再び!)。ぜひ、その点に関する神野の論考を期待したい。

②小川の句は「あえて書いているもの」という鑑賞もネットではいくつか見かけた。つまり、「息子の嫁にはお芋を煮てくれるような人が欲しいなあ」という保守的な意識が存在する、ということを記述しただけで、自分の考えとは別だろう、と。果たしてそうか。

そういう通俗性をあえて自分と切り離し批判的に見せる方法論は小川ならいくらでも持ち合わせているはずだ。たとえば、一番簡単なのは、句全体を「」で囲んでしまうことだろう。

「子にもらふならば芋煮てくるる嫁」

一句全体が誰かの発言であるかのようにしてしまえば、句の内容は句を作る主体とは切り放され、切り放すという行為そのものに批評性も生まれるだろう。しかし元の句の状態でそのような批評性があると見るのはやはり無理筋のように思う。

このことに関連して、むしろ僕が問いたいのは、俳句で何が書けるのか、俳句の限界論とでも言うべき視点だ。ざっくりした論になるのは承知で話してみるが、俳句という短い言葉が作品として成り立つ背景には、日本人という同質な民族の文化があると考えている。その代表が季語である。ある季語を入れたとき、そこから思い浮かべる情景や風情にある程度の共通理解があるからこそ、短い言葉を作品として成立させることができる。「秋風」はさびしい、「桜」ははかない、など。その凝り固まった概念を打破するために正岡子規が写生を提唱し、それは今も息づいていると思うが、それは季語の象徴性を全く否定しさるものではなく、むしろ強化する側面もあったのではないかと思う。

共通理解、といったときに出てくるのは季語だけではない。

玉音を理解せし者前に出よ
 渡辺白泉
春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子
牛乳飲む片手は腰に日本人 山本紫黄

これらの俳句は「終戦時の玉音放送は大変聞き取りづらかった」という歴史的事実や、「春はあけぼの、とは枕草子の一節で、それをきぬぎぬの別れに転化している」という教養や、「銭湯で牛乳を飲むときは片手を腰にあてるという一場面が懐かしさを誘う」という情緒を前提としている。そういうものがないと分からないのが俳句の弱さだ、とは言わない。それも含めて俳句であるという事実に対して、プラスの評価もマイナスの評価も個人的にはない。

ただ、俳句はすでにある価値観やある程度広まっている共通の過去にしかコミットできないというところに限界があるのではないかと考えている。これはつまり、俳句から新しい価値観を作り出すことはできないのか、という問いだ。小川が旧弊な価値観を引き写した句を書いていることと、これは無関係ではない。先に述べたかぎかっこをつける、という提案は、この問いに対しては答えになり得ない。渡辺の「玉音」の句だって、玉音やそれにまつわる日本の天皇制に対するアンチテーゼとして機能しているのは明らかだが、それは肯定か否定かの違いであって、過去のすでにある価値観に対するリアクションであることには変わりはない。

ジェンダーフリー、LGBT、これらの「新しい」価値観を俳句に盛り込むことはできるだろう(ことさら新しいというほどの話ではないが)。しかしそれらは新しいとは言ってもすでにこの世にある価値観だ。五七五から全く新しい価値観を生み出すことはできるのか、そもそもそんなことを考える必要があるのか、それができなければひょっとして俳句はやっぱり第二芸術なのではないか……元の神野の論考とはだいぶ離れた話になってしまったが、そんなことを考えた。

とにかく、見逃してはいけないのはこの神野の論考は「(上)」だということだ。「(中)」「(下)」を座して待ちたいと思う。

◎「合評鼎談」


西村和子、佐藤郁良、鴇田智哉の3人の俳人が角川俳句4月号の俳句作品を合評するコーナーだが、内容では、片山由美子の海外詠を受けての西村の次の発言が気になった。

海外詠って、慣れていない人だとカタカナが多くなってしまうけれど、この方は必然的なカタカナしか使っていないですね。(中略)私も海外詠ではこのようにありたいといつも思っています。
そうかー、カタカナ、いいと思うけどな。

しかし一番気になったのは、コーナーの扉で3人が並んだ写真が掲載されているのだが、写真では3人が左から西村・鴇田・佐藤の順番で並んでいるのに、写真の上に書かれた3人の名前が左から西村・佐藤・鴇田の順になっていること(たぶん年齢順なのだろう)。写真の左下には小さな文字で「左から西村和子、鴇田智哉、佐藤郁良の各氏」と説明されているが、知らない人は写真中央の長髪男性が佐藤郁良だと思うだろう。

写真と合わせればいいのに…という、これは本当にただの一読者の感想でした。

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