2019-07-07

『今井杏太郎全句集』を読む会 今井杏太郎―からだとことば 小川楓子

『今井杏太郎全句集』を読む会
今井杏太郎―からだとことば
野口三千三著『原初生命体としての人間』岩波現代文庫より

小川楓子

野口体操を知っていますか。

野口体操とは、東京藝術大学名誉教授であった野口三千三の考案した体操です。音楽家、舞踏家などの弟子が多く、教え子には坂本龍一もいます。最近の話題ですと、2019年5月3日朝日新聞の「折々のことば (鷲田清一)」に三千三の著作『原初生命体としての人間』が掲載されました。

わたしは、野口体操を習っているのですが、俳句の在り方と身体の在り方の共通点を感じることが多いです。にょろにょろ、ほわんほわんと体操をしていると、からだもこころもほぐれてきて、自身が液体の入った、とぷんと揺れる袋のように感じられます。わたしにとって、理想の俳句とはこの袋の状態に似ているような気がしています。

とりわけ今井杏太郎の作品はこの袋のように柔軟でゆとりがあり、すっとこころに入って来る印象があります。杏太郎の俳句や俳句観は野口三千三の理念に通じているような気がしています。それでは『今井杏太郎全句集』と『原初生命体としての人間』を通じて二人の共通点を探っていきたいと思います。

〈杏太郎〉
P277
あの、半分覚めたような、眠っているような、いうなれば、半覚醒の混沌としたうす暗い頭の中に、運がいいと、何かがぼーと光り出すのである。そのとき、俳句が生まれるのである。

〈三千三〉
P8
筋肉にかぎらず脳細胞にいたるまで、あらゆる器官・組織・細胞のすべてにおいて、解放されている部分が多ければ多いほど、そこにそれだけ新しい可能性を多くもつことができる。
P52
こころの主体である非意識的自己の総体に任せることによって、最適最高の意識の在り方が、自然に生まれると考えるのである。

これらから、杏太郎俳句誕生の場面におけるからだやこころの状態は、三千三の理想的な心身の在り方によく似ていることがわかります。ゆるみ、ゆとりのある身体の状態、非意識的自己に委ねることができる自在なこころの状態において、感性は輝き出します。それが杏太郎の言う「なにかがぼーと光り出す」ことであると考えます。

冬の沼ひかりたきときひかりけり 杏太郎

濁った水の上に薄氷がところどころ浮かぶような沼でしょうか。時刻とともに変化してゆく光の状態。ひかりの鈍い水面。しかし、たしかにひかりを放っていることが〈ひかりたきときひかりけり〉に表されています。

杏太郎には、夜明けの沼が似合うような気がします。冬の沼という季語に自らを委ねたとき、三千三の言う「非意識的自己の総体に任せる」ことで予期せぬ可能性が開かれてゆきます。そこで、冬の沼自らがひかり出すのです。

〈杏太郎〉
P327 (前略)一句の流れは、五・七・五で、プツン、プツンと切られている訳ではなく、いうなれば、体内を流れる血液の流れのようなものであることを、充分に理解しておくことが必要であろう。
P289
芭蕉をはじめ、多くの文人たちは、なぜ「水のある風景」に憧れたのであろうか。生物発生の原点が水であった、ということと何か重要なかかわりがあるのかも知れない。
 
〈三千三〉
P12
「生きている人間のからだ、それは皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいるのだ」
P46
「生きもののからだの動きは、もともと、液体的なものの流れ・気体的なものの流れとしてとらえなければ、どうにもならないのではないか」

杏太郎も三千三も生物は、液体的なものからで出来ているということを意識します。さらに、杏太郎は俳句というものを血液の流れる生命体のように感じていたことがわかります。

杏太郎の作品には切れ字が少なく、はっきりとした切れを感じることは稀です。また流れるように心地よい独特の韻律も特徴です。循環する水のように、俳句の内部も淀みなく流れ続けるからこそ、一句が息づき作品として立ち上げると考えていたのではないでしょうか。

霧をゆく人あり水になりながら 

地球の表面の多くは水で覆われています。蒸発し、雨として天から降り注ぎ、また蒸発して、ということが繰り返されています。その地球と人が溶け合うかのような一句です。大気と人との境が次第に曖昧になり、ついには水となってしまうというのは、杏太郎の身体感覚の極致と言えるのかもしれません。

てふてふの生れて空に浮きにけり 
ゆふかぜの先にうかんで雀の子  
風の上に浮いててんたうむしだまし 

てふてふ、雀の子、てんたうむしだまし、いずれも飛んでいるのではなく大気中に浮いています。大気というものを液体から変化した気体として、杏太郎は、直感的に掴み取り、大気そのものを描写しているように感じます。

夜の明けるころ凩は水のいろ 
波の上の水のいろして春の月


水のいろを杏太郎はどのような色として捉えていたのでしょうか。夜明けの寝床で凩に耳を澄ます杏太郎の様子が思い浮かびます。吹き渡る凩や春の月がたっぷりと液体的に表され、みずみずしい二句です。

〈杏太郎〉
P311
「はじめにタッチありき」。即ち、触覚がもっとも原始的な感覚として存在したことを意味する。触覚は、動物の体表全体にわたって存在する為、もっとも破壊されにくいものである。俳句の感性とやらもまた、先ず物に触れることから発展してゆくことになるのではあるまいか……

〈三千三〉
P173
大事に触れるということは、自分の中身全体が変化し外側の壁がなくなって、中身そのものが対象の中に入り込もうとすることである。そのことによって対象の中にも新しく変化が起こり、外側の壁がなくなり、中身そのものが自分に向かって入ってくる感じになるのである。
P40
「皮膚という原初的な脳、今は外側の脳ともいうべき生きているひとつの袋、この袋の中に体液という生きものがいっぱい、その体液にとっぷりつかって生きているのが筋肉・骨・内臓……、この多重構造の生きもの全体が自分なのである」

杏太郎は「触覚は、動物の体表全体にわたって存在する」と述べ、野口は脳を上位に位置付けしない、アメーバー的身体の在り方を理想としました。〈霧をゆく人あり水になりながら〉の作者である杏太郎は、体全身で感じ取り、野口が述べているように「中身そのものが自分に向かって入ってくる感じになる」状態を味わっていたのではないだろうか、と考えます。

いちにちを目つむりをれば日の永き
目をつむりても真青な日向水
滴りといふ明け方の水のこゑ


にも杏太郎の「体表感覚」が表れているように感じます。視覚を閉ざし、対象に丹念に全身で触れてゆく。意識を沈め、さらには非意識的自己の総体に委ね、たゆたうことで作られた杏太郎俳句の集められた『今井杏太郎全句集』を読み進めると絶えず変化し続ける水面に触れてゆくような心地よさがあります。

杏太郎の作品に触れるこころとからだの変化へこれからも思いを深めてゆきたいと思います。

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