【七七七五の話】
第2回 扇の梯子
小池純代
外国語とは縁がないけれど、ないからなのか、訳詩を見ているとときどき能動的な気分になる。腕前もないのにどうかしている。どうかしていることはたいがいたのしい。マラルメを読んでいて七音五音の泡がぶくぶくしたときに出てきたのが次の「マラルメ夫人の扇」。
わたしの胸はことだまの 仮の住まひにすぎぬもの
わたしの妻はわたくしの 仮の宿りにすぎぬもの
過ぎてしまへば何もかも 仮でないものあらぬもの
仮の吾妹のその手にゆるる仮の扇よわが心
七五七五を三行連ねて、長歌の反歌風に七七七五を置いた。座五の「わが心」は、
うらやましやわが心 夜昼君に離れぬ 『閑吟集』
に倣った。この小歌、生霊の暑苦しい所業とも読め、つかずはなれずで相手をいなす振舞とも読める。酷暑のいまは後者で読みたい。かるくて涼しい恋のあしらいである。
かるいといえば、折口信夫の一首、
車よりおり来し女 美しき扇のうへの 秀でたる眉 『倭をぐな』
地に足がつくかつかないかの瞬間に溶けるか飛ぶかして消えてしまうほどかるい。そして涼しい。
折口は短歌に次ぐ文学を建設しようと試みたことがある。八八八六の様式を仮の出発点として、その一歩前で七七七五を指さした。短歌の将来を思っての記述だったと思う。
紙から文字がはがれ、文字から音がぬけだすときにこれらの音数の梯子を使えばよいと思われたのだろうか。一段飛ばしでのぼったり、三段すっとばして飛び降りたりしたくなる、頑丈にしてスマートな仕様の、扇のような梯子。
2019-08-04
【七七七五の話】第2回 扇の梯子 小池純代
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