空へゆく階段 №15 解題
対中いずみ
「青」305号では、裕明の第一句集『山信』について特集が組まれた。「希望」はその際の小文である。ここには着流し姿に眼鏡をかけた若い裕明の写真と共に波多野爽波の言葉が掲載されている。『山信』上梓の背景についてはこの一文を紹介させていただけば足ると思う。尚、文中の「三百号の祝賀会」とは1980年10月28日のことである。
この人この句集 波多野爽波
三百号の祝賀会の晩はしたたかに酔って、二次会の中途あたりからのことは僅かに記憶の断片があるのみであった。
翌日、前夜辛うじて持ち帰った紙袋の中から忽然と現われたのがこの黄表紙の「山信」である。いつどこでこの句集がこの紙袋に納まったのか、私には全く記憶がない。
三百号のお祝いの会と、裕明二十歳の自祝の句集、私はそこに因縁めいたものを覚えると同時に、つたない墨書のコピーによる百句を読み進んで何か胸にジンとくるものを抑え難かった。
裕明君の生まれたのが昭和三十四年だから、その頃の私は、そして「青」は、などとあれこれ記憶を手繰ってみたりした。そして、またこの年は虚子先生が亡くなられた年だから、その年のことは妙に静かに思い出される部分がいろいろとあって、そこにまたこの愛すべき青年と俳句、そして「青」との出会いなど、やはり考えれば考えるほど世の中のめぐり会いの不思議さが思われるのである。
と同時に自分自身の二十歳という年齢、そしてその年までの句集を振り返ってみて、些か愕然とさせられた。自分ではこと俳句についてはかなり早熟で、もう二十歳ぐらいまでにはそこそこの句を作っていたとばかり思いこんでいたのだが、「鋪道の花」を繰ってみても、二十歳という年限で区切れば“勝負あった”の一言に尽きるようである。
果してこの青年はこれからどういう句作りの道を歩いてゆくのだろうか。
世間一般の「若者の俳句」と称せられるような晦渋な俳句を作らぬことだけは確かだと思う。
そしてまた、この百句にはさまざまの要素が含まれている。この年令にしては「老成」と指摘されるような句も散見される。しかし、若くして老成の句を作り得るということは、将来作家として大成するに必須の要件と私は考えているので、むしろ喜ばしいことと思っている。
俳句と暢気につき合うことも、という彼の発言もあることだから、俳句と、そして自然と一生つき合って行けるかもしれない。
私の好きな句を何句かあげておこう。
嬉しくもなき甘茶佛見てゐたり
大学も葵祭のきのふけふ
やはらかき宿の御飯や草干す夜
盆の雨やむときしづか風呂熱き
寺の子の赫いかほして絲瓜水
≫田中裕明 希望
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