【週俳7月の俳句を読む】
意味から音へ
髙勢祥子
何回もはたちだよつてソーダ水 岩瀬花恵
「はたち」を「二十歳」書かないのは何故だろう。「だよつて」とまとめるのも可愛いすぎないかと一読思うのだが、何度も年齢を聞かれて何度も答えているという場面を思い浮かべると、「二十歳」「二十歳」「二十歳」…と繰り返している内に、「二十歳」に意味がなくなって「はたち」と音だけになってしまったのだろうと想像されてくる。
「はたちだよつて」という口語も、同じ会話の繰り返しの過程を描写するために必要だったのだろう。
「祖母の語の軟化せはしく夏座蒲団」の句と並んでいるので、祖母との会話だったのかと思われるのだが、「ソーダ水」が帰省のひと時を思わせて懐かしさが湧いてくる。
なめくぢの跡はなめくぢより細い 神山刻
なめくじの跡は本当になめくじよりも細いのだろうか。「ナメクジ」を検索したがよく分からなかった。きらきら、ぬめぬめはしているらしい。イメージで言えばナメクジは湿っているから体よりも太い跡がそうだが、「細い」と発見したところが驚きなのだろう。
「人より人影が細い」などとすれば、人間とは?といったことを考えさせられるのだが、「なめくぢ」だとそういった方向に行かない。「なめくぢ」は「なめくぢ」であるという所に留まることが、この句の面白さだと思う。
母もその母も金魚を死なせけり 瀬戸優理子
買ってきた金魚は簡単に死ぬ。そもそも弱い個体だったりするし、水が変わっても弱る。猫や鴉に狙われるものもいるし、金魚が死ぬのはまあ仕方がない。
この句も「死なせけり」とは言っているものの、あまり気にしていない感じがする。「母も」「その母も」とあるので、当然それに続く「私」も金魚を死なせるのだろうと予測されるだが、それにしてはあっけらかんとしている。
「蟻殺すわれを三人の子に見られぬ 楸邨」には、強い罪悪感があるけれど、同じように小動物を死なせたこの句からはそれが感じられない。
それは何故かと考えるとそれはやはり「母」という語の力なのではないかと思う。「母」は「生む」存在だから、それと対になる「死」についても領分とするのだろう。だからこの句からは過剰な罪悪感ではなく、運命、諦念のようなものが伝わってくるのだと思う。
柱抱くたび七月の感覚器 楠本奇蹄
何の柱かは分からないが、それに手を回したときに触覚が研ぎ澄まされて、自分が触覚だけの存在になったような気がした。感覚には視覚、聴覚、嗅覚など様々あるが、この句では「抱くたび」とあるので、触覚のみが際立ったのではないかと思う。
感覚を一般的に言うなら手とか腕とか皮膚とかではないかと思うが、この句では「感覚器」と敢えて言うことで、感覚が自分を離れていくような気分がこちらに伝わってくるのだろう。筒井康隆の種々の短編にはいろいろな器官が誇張された生き物や宇宙人が出てくるのだが少しそれをイメージした。不思議な世界だ。
2019-08-18
【週俳7月の俳句を読む】意味から音へ 髙勢祥子
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